貝塚市内発見の近世粘土採掘土坑


     貝塚市内発見の近世粘土採掘土坑  

『加治・神前・畠中遺跡発掘調査概要』貝塚市埋蔵文化財調査報告第42集 1997
2005/9/2。改訂版。ずいぶん昔のものですが、思うところがあって改訂版をアップ。図は省略。

はじめに

 近年増加した発掘調査は様々な新事実を提供する。特に、従前では調査対象ではなかった近世遺跡についても、計画的に発掘調査が実施されるようになり、大きな成果が得られている。貝塚市内においても、市名の元となっている「貝塚町」の前身である貝塚寺内町遺跡について、限られた中のものであるが、徐々に発掘調査が実施できるようになり、断片的ではあるが様々な成果が得られている。

 そのような状況と関わって、貝塚寺内町遺跡を取り囲むように位置する周辺遺跡の近年の発掘調査において、近世の粘土採掘土坑を多数確認している。概要報告段階では、位置関係から寺内町との関わりを推定していたが、それぞれの調査例単独では、採掘された粘土の用途や寺内町との関わりについて検証することは困難であった。そこで、小稿では近世粘土採掘土坑について総合して検討し、採掘粘土の用途等について考えてみたい1)。

1.粘土採掘土坑の検出例(図22)

(1)加治・神前・畠中遺跡2)(図23)

 平成2年に実施した発掘調査において採掘土坑を検出している。調査地点は本遺跡の北部に位置し、寺内町の南端から約200mを測る地点である。調査では中世の遺物包含層はほとんど確認できず、遺構の深さも浅いため、近世段階で平面的な削平を受けたと推定できる。したがって、遺構の状況は良好では無く、出土遺物も少ない。

 粘土採掘土坑と確実に判断できるものは、SD−5、SX−9、12、14、16、19の6ヶ所である。規模は1.5×6mの溝伏のものと、5×6〜15mを測る円形に近い不整形のものとがある。採掘土坑は地山である黄色粘土が厚く堆積する場所に存在し、埋土は淡灰色土であり、深さ約0.2mを測る。遺物は少量であるが、陶磁器等が出土している。遺構の残存状況が不良であるのでこれ以上の詳細は不明だが、18世紀以降に掘削されたものである。

 これらの遺構は黄色粘土の堆積が厚い部分に存在することから、この粘土を狙った採掘土坑であることは明らかであり、埋土は周辺の耕作土を埋め戻したものと考えられる。また、採掘の規模は小さく、個人的なものである可能性が高い。

(2)津田遺跡3)(図24)

 平成5年に実施した発掘調査において採掘土坑を検出した。調査地点は本遺跡の南西部に位置し、寺内町の北東端から約150mを測る地点である。発掘調査は開発計画との関係で2ヶ所の調査区を設定した。

 採掘土坑は調査区のほぼ全域にて検出しており、第1区ではSK−4、5、6、第2区ではSK−2、3、12の6ヶ所である。第1区のものは溝状を呈し、幅6〜12m、深さ0.1〜0.3mを測る。埋土はいずれも暗オリーブ灰色砂質土を主体にし紫灰色砂質土、黄灰色粘土のブロックを含む。第2区のものは1.5〜4.1×2.1〜5.9mを測り、円形に近い不整形である。深さは0.4〜1.8mを測り、埋土は黄灰白色粘土、暗紫灰色粘土、黒褐色粘土を混合したものである。遺物は第1区では青花、陶磁器等が出土しているが、第2区では出土していない。

 これらの遺構は調査区のほぼ全域にてこれらを検出し、さらに調査区外に広がるため、非常に大規模な作業であることが理解できる。埋土については、周辺に存在する粘土等だけではなく、様々な土にて埋め戻しを行なっていることから、他地点からの搬入が考えられる。

(3)東遺跡4)(図25)

 平成6年に実施した発掘調査にて採掘土坑を検出した。調査地は本遺跡の北部に位置し、寺内町東端から約300mを測る地点である。開発計画にもとづいて、調査区は3ケ所設定した。採掘土坑は第3区にて多数検出した。

 第3区は、既存建物の建設時に大幅な削平を受けているものの、それ以外の部分では調査区のほぼ全域にて採掘土坑を検出した。地山は灰白色粘土であり、この粘土が存在しない第1、2区では採掘土坑は無く、明らかにこの粘土採取が目的と見られる。規模は1.5〜5×4〜7mを測り、長方形、方形、円形に近い方形等がある。埋土の違いから2回に分けて掘削を行っており、調査区東端部分のものが淡黄灰色土であり、その他が灰色砂質土にオリーブ灰色土、灰白色粘土のブロックが混じるものである。深さは前者が約1m、後者が0.3〜0.4mを測る。遺物は遺構の上層近くに集中して出土しており、近世後半の陶磁器等が出土している。特に瓦が多量に出土している。

 埋土の伏況から数m四方を掘削の一単位とし、それを繰り返し一帯に採掘を広げている。さらに、同じ方法にて調査区内では2回の採掘を行っていることが読み取れる。埋め戻しについては、採り漏らしの粘土や耕作土(灰色砂質土)を主体として埋めているが、それ以外の土も存在しており、他地点からの搬入が考えられる。

(4)加治・神前・畠中遺跡5)

 平成7年に実施した発掘調査にて採掘土坑を検出した。調査地は本遺跡の北端部にあたり、寺内町南端から約500mを測る地点である。

 発掘調査では、調査区西半のほぼ全域において採掘土坑を検出している。位置的には地山である黄色粘土が堆積している部分に存在しており、明らかに粘土採取を目的としていることが理解できる。規模は3×10mを測る長方形を採掘単位とし、それを3、4回繰り返し、10×13mの大単位となるもの、2.5×10mを測る長方形を採掘単位として、同じく3、4回繰り返し、12×12mの大単位となるもの、5×5mを測る不整形を単位とするものがある。深さは約0.5m〜1mを測り、埋土は黒褐色土、暗褐色土、黄灰色土、褐灰色土、黄色粘土ブロック、砂礫等さまざまであり、採掘時に出た黄色粘土や調査地に存在した遺物包含層などと共に、他所から搬入した土が埋土となっている。遺物は、多数の陶磁器、瓦片、焼土、火を受けた瓦片等が出土し、調査地の遺物包含層に含まれたと推定できる瓦器、土師器、須恵器等も出土している。特に今回青花が11点出土し、市内におけ老最多出土例となった。また、大単位同志の間で、幅約0.5m程度で帯状に粘土採掘が及んでいない部分が存在し、採掘時に上面の畦を破壊せずに、農地区画の中だけを採掘していることが読み取れる。

 今回の採掘土坑は検出した範囲だけでも約2,500平米に及んでおり、一度に採掘したならば非常に大がかりなものである。

2.採掘粘土の用途

 すべての調査区は、土層断面観察から、粘土採掘時は農地であったことが判明している。

 まず、遺構埋土の状況からすると、(1)加治・神前・畠中遺跡例以外は調査地に存在した耕作土、掘り漏らした地山ブロックを埋め戻しに使用しているものの、明らかに他地点からの搬入と見られる土が含まれており、単純に粘土採取後、周辺に存在した土によって埋め戻したとはできない。その他の3例は調査区外に広がるほどの大規模な採掘であり、周辺の土によって埋め戻しを行なった場合、大幅に周辺の土を削り、使用することとなる。したがって、採掘地周辺の地形を大きく変化させることとなり、採掘地を旧地形を変えずに農地に復旧することは不可能である。また、埋土内に陶磁器、瓦が多数含まれており、農地にこれら陶磁器等が多数散布していたとは考えられない。

 市内各地での発掘調査実施中に地域住民から聞いた話では、農家にて住居を改築する場合、壁土等の建築用材として農地の床土以下を掘削し、その後に既存の住宅の解体残土や瓦をそこに捨てるということであった。この一連の作業が地域的に広く分布しているのかは、それ以外の地域で聞取り調査を実施していないため不明であるが、時代的には昭和中頃まではされていたようである6)。

 この現代例と3ヶ所の採掘土坑の状況を比較した場合容易に理解できる。採掘地周辺に存在しない土が含まれることは建物解体時の残土であり、農地に大量には存在しないはずの瓦、陶磁器が多量に含まれることは建物解体時の瓦、廃棄された陶磁器、造成作業の削平した遺物とできるのである。したがって、粘土採掘の目的は建築用材であることが断定できる。

3.採掘粘土の使用場所

 それでは、採掘された粘土の使用場所はどこか。ここで注目したい出土遺物に青花がある。(2)津田遺跡、(4)加治・神前・畠中遺跡において、前者では1点、後者では11点の青花が出士している。

 市内における発掘調査では、青花の出土は一般的では無く、非常に限られる。寺院跡や農地から出土するものの、1調査にて小破片が1点程度出土する例が数例という状況にある7)。その中にあって、貝塚寺内町遺跡の発掘調査においては、青花自体の年代に合致した遺構等からの出土では無いものの、近年の発掘調査において江戸時代に形成された遣物包含層等から複数出土することを確認しており、今回の加治・神前・畠中遺跡を除いて、貝塚寺内町遺跡が市内の集落遺跡では青花出土の最多遺跡である8)。

 また、この遺跡は、「寺内」としての取立、信長、秀吉からの「寺内」としての扱いについては間題を持っものの、天正11年(1583)から同13年(1585)にかけて、本願寺御堂が置かれ、浄土真宗の中心地であった。更に、江戸時代を通じて幕府より「寺内」として安堵され、願泉寺を中心とした都市であった。町内には、商家、手工業職人が多数存在し、周辺地域における商業、手工業の中心地の一つであった。このように集落の歴史、性格からみて、青花の示す同時代に直接入手したこと、後に購入、伝世・廃棄されたこと等、これら輸入磁器を取り扱っていたことは容易に理解できる9)。

 間接的な事実からの推定ではあるが、現在の貝塚市域周辺を見た場合、貝塚寺内町遺跡以外に青花と結びつく集落等は見い出せず、各発掘調査にて出土した青花の出自はこの遺跡であることはほぼ確実と考えられる。この遺跡での建物等建設のために粘土が採掘され、解体残土等が採土地に運ばれたと見られる。

 採掘後の運搬の距離を見ると、各発掘調査地点は貝塚寺内町遺跡から200〜500mの地点に位置する。皆負子、天秤棒、もっこ等にて運搬する10)作業効率を考えると非常に好条件の地点に立地している11)。したがって、この遺跡を囲んで周辺に存在する粘土採掘土坑は、すべて寺内町のためのものであることが考えられる。

 また、貝塚寺内町遺跡内の段丘上に位置する地点における発掘調査では、ほとんど造成のための盛土を行わず、切土整地が主体となっていることが明らかになっている12)。切土した残土は町内にて処分することは不可能であり、寺内外に廃棄場所を求める必要性が存在したことが理解でき、この事からも先の推定を傍証していると考える13)。

おわりに

 小稿では貝塚市内で発見される近世の粘土採掘土坑について集成、検討し、現代の民俗例との比較から採掘された粘土は建築用材として使用されたことを論じ、採掘土坑から出土した青花から、土坑から採掘された粘土は貝塚寺内町遺跡で使用されたことを論じた。

 五十川伸矢の研究によると14)、近世段階では、土を扱う専業集団が生まれていたこと、商品として土が売買されたことが想定されている。先に見たとおり、(4)加治・神前・畠中遺跡の検出例は、2,500平米にも及ぶ採掘土坑群を確認し、採掘された粘土量は膨大である。作業量からすれば採掘集団を考えなければ到底理解できるものではない。

 今回の考古学成果にもとづく検討では、売買関係、採掘集団、具体的な採掘行為等について考えることはできないが、今で言う「リサイクル」が発達した江戸時代社会においても、これら解体残土等については「リサイクル」できなかったことを具体的に明らかにし、また、それらの処分方法の一つを明らかにできたことは成果と考える15)。


1)粘土採掘土坑からの出土遺物は、幕未までのものであるが、埋土には様々な遣物が混在し、出土遺物の下限時期が必ずしも遺構の時期とするのは問題があるため(例、近世中頃までの遺物しか出土しないが、実際は幕末の遺構である。等)、今回は「近世」として大きくとらえる。
2)貝塚市教育委員会『加治神前畠中遺跡発掘調査概要』貝塚市埋蔵文化財調査報告第20集 1991。
  概要報告では埋土の記載が抜けているので、ここに改めて報告する。
3)貝塚市教育委員会『津田遺跡発掘調査概要』貝塚市埋蔵文化財調査報告第34集 1994。
  概要報告にて肥前系染付と報告しているもの(図10−1)は、青花であることをここで訂正する。
4)貝塚市教育委員会『東遺跡発掘調査概要l』貝塚市埋蔵文化財調査報告第37集 1996。
  概要報告では、第3区第2面における遺構記述が不足しており、調査区北西の段差部分を境として、東側段上部分の埋土が淡黄灰色土、西側段下部分が灰色砂質土べ一スとはっきりと分かれる。また、記載のあるもの以外の図面上にある遺構はすべて粘土採掘土坑であることをここに付記する。さらに、第3区の面として報告しているものは、実際には、同一面上で切り合い関係をグループに分け、新しいものから順に面としているものであり、遺物包含層が間に存在するものではない。 なお、これ以外にも概要報告書については不充分な記述が多いため、引用される場合はご一報いただきたい。
5)貝塚市教育委員会『加治・神前・畠中遺跡発掘調査概要』貝塚市埋蔵文化財調査報告第42集 1997。
6)貝塚市沢地区にて、採掘後に瓦をその穴に捨てるという話を聞いた。
7)貝塚市教育委貝会『加治・神前・畠中遺跡発掘調査概要−保健合同庁合建設に伴う発掘調査−』 貝塚市埋蔵文化財調査報告第36集 1996。
8)貝塚市教育委員会『貝塚寺内町遺群発掘調査概要』貝塚市埋蔵文化財調査報告第43集 1998。
9)貝塚市役所『貝塚市史』第3巻資料 1958。
  47頁、58頁「貝塚御座所日記」。
  71頁「(包紙)権現様御黒印之写」慶長15年(1610)願泉寺文書。
  130頁「了観師記万記録上」延享3年(1746)願泉寺文書。
10)NHKデータ情報部編『ヴィジュアル百科江戸事情第2巻産業編』雄山閣出版 1992。
  162頁の「土木人夫」土の運搬の様子。
11)板倉聖宣『日本史再発見理系の視点から』朝日選書477 朝日新聞社 1993。
 陸上での運搬手段として、大坂ではベカ車があるが、町奉行所はきびしく台数制限等を実施しており、あまり一般的ではなかったようである。したがって、人力による運搬が主と想定した。
12)貝塚市教育委員会「II 貝塚寺内町遺跡の調査」『貝塚市遺跡群発掘調査概要18』貝塚市埋蔵文化財調査報告第38集 1996。
13)塵芥については、浜に捨てよとの命令が出ているため、解体残土等についても、固様の扱いがあった可能性はあるが、量的にみて浜に無差別に廃棄したとは考え難い。
貝塚市役所『貝塚市史』第3巻資料 1958 168頁。

 政令
寛政十二庚申四月十五日
一、御境内之塵芥捨所之義二付、左之通書付
  塵芥之義、向寄之川筋畠等へ持出捨候様子二相見ヘ、有間敷次第ニ候、
  以来浜へ持出捨可申候、若心得違川筋畠へ持出候ハ、急度御沙汰可有
  之事
  申四月
右年寄当番へ御渡、尚御家来一統へも仰聞候

14)五十川伸矢「第6章土採りの歴史的変遷」『京都大学埋蔵文化財調査報告IV−京都大学病院構内遺跡の調査−』京都大学埋蔵文化財研究センター 1991。
15)渡辺善次郎「江戸時代になぜゴミ間題がなかったのか?」『江戸の真実』別冊宝島126号 JlCC出版局 1991。
 江戸では、下肥、灰等の廃棄物のリサイクルが行われており、火事跡等に発牛する瓦、壁土等は道路の補修に利用されたり、ヘっつい作りに塗りこめられたりし、それでも処分できないものは埋立地に連ばれたとのことである。しかし、貝塚寺内の中ではリサイクルの様子は明確ではなく、周辺には江戸の様な埋立地は存在していないようであり、必然的に寺内町周辺にて処分する必要が出てくる。

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