貝塚寺内


     貝塚寺内(貝塚寺内町遺跡)

貝塚寺内(かいづかじない、大阪府貝塚市)は真宗史なんかでは有名ですが、それ以外ではどう受けとられているのでしょうか?関西近世考古学研究会でも一度大会テーマに取り上げられましたが、個人的にはどう受け取られているか気になりました。
寺内町と言えば、富田林(大阪府)や今井(奈良県)が有名ですね。伝統的建造物群の指定を受け、保護、活用に力を入れていますね。古い町並みが残っていることがやっぱり人気を呼ぶのでしょうか、WEBで検索しても、富田林が沢山HITします。貝塚は近世でのあり方が他とは違うので、一部では有名なんですが・・・・。

貝塚寺内は貝塚市の名称の元です。貝塚市は大阪南部、東には岸和田市(地車祭り)、西には泉佐野市(関西空港)があります。寺内は市の西端、大阪湾に面しています。

中世末、浄土真宗を紐帯として成立した寺内は、近世に入って宗教都市?から商業都市?に変えられます。当時の分類では単なる村となるのです。でも、貝塚は政治的に乗り切り、徳川幕府から特別な権利を与えられます。もともとあった町場の部分が願泉寺の寺領となるのです。願泉寺住職、卜半(ぼくはん)氏が領主となります。幕府での立場も旗本待遇で、将軍お目見えができたそうな!それと、浄土真宗では東本願寺、西本願寺両方に属する。また、後に卜半氏自体、天台宗の僧侶になるというややこしいことになります。卜半氏自身が宗教家としてより政治家としての手腕があったということですネ。(文献などからの寺内の歴史は、書きだすとそれだけで長くなるので、これ以上ふれません。)

寺内町のイメージは濠と土塁に囲まれた防御都市のイメージです。最近、寺内町のブームでして、発掘調査の新しい資料やこれまでの文献史料の再検討など新しい展開があり、このイメージは正解とは言えなくなってきました。貝塚寺内にも慶安元年(1648)の絵図があります。中世末の段階で濠と土塁に囲また防御された町との認識がされていました。これも”正解”でないことが明らかになりつつあります。

文献史料が比較的豊富に残っているので、これまで説明されてきた貝塚の歴史は問題ないと考えていました。でも、発掘調査を進めていると、「?」っという事例がでてくるようになりました。これまでの分析が十分でないなら、考古学によって検証しよう!と、1992年から発掘調査に本腰を入れ始めたのです。といっても、古い町並みが残っていますので、建設工事自体が小規模なものがほとんどです。小さな調査区を掘って、土の堆積状況と出土遺物から年代を割り出す、それが精一杯でした。地味な作業の連続。それまでの調査例もほとんどなく、古くから文化財保護法によって遺跡に登録されているにも関わらず、遺跡の基礎的なデータ収集に終始していました。

そんな状況がしばらく続いたのですが、1995年頃から共同住宅や公共事業に伴って広い面積を発掘調査ことができるようになりました。その調査成果を位置付ける必要から、周辺の小さな調査を再検討してみると、色々なことが分かってくるようになったのです。それまで言われていたものとは違うイメージが見えてきたのです。

まず「濠」!大阪湾に面した部分以外、3方向には濠が作られていたとなっていました。濠があるとされる3方の内、北東、南西2方は川が流れており(北境川、清水川)、これを濠代わりにしていたようです。残る1方にはこの2つの川をつなぐように濠が掘られていたようです。

土塁に関しては、現状では全くわかりません。すでに市街化しているため破壊されたと見るべきかも知れませんが、痕跡すら確認できません。明治時代の絵図には、濠があった部分外側にそれらしい表現がありますので、この部分に存在した可能性は高いです。今後の課題です。

街路などの町の構造ですが、近世の区画が良好に残り、お家もその区画の中で建設されていますので、近世以前の道、区画割は確認できません。明確な資料はないのですが、各発掘調査区の土の状況を、出土する遺物を見ると、現在に残る区画は近世初頭まではさかのぼれそうですが、中世には存在しないようです。

小さな調査区が大半で、町について明確に言及できませんが、貝塚寺内の状況はここまで明らかになっています。

1998 「貝塚寺内町遺跡の分析」『貝塚寺内町遺跡発掘調査概要』貝塚市埋蔵文化財調査報告第43集 貝塚市教育委員会
1999 「貝塚寺内町遺跡」『寺内町研究』第4号 貝塚寺内町歴史研究会

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いろいろなサイトで、「寺内町」(じないちょう、じないまち)について紹介されています。ここでは良くある寺内町の説明とは違うことを書いています。これまでの寺内町の説明が完全に間違っている訳ではありませんが、最近の研究で、これまでの認識だけでは理解できない成果があがっています。
「寺内町」の読み方で良く質問されますが、文献史学の方々は「じないまち」を提唱されています。ワープロで入力すると「じないちょう」で「寺内町」と変換されますので、文字的には「じないちょう」の方が良いようです。ちなみに私は「寺内」と読んでいます。当時「寺内」と呼ばれていたからです。「寺内町」は現代の造語だからです。m(_ _)mペコ
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