いろいろ 貝塚寺内 町屋建物1
 貝塚寺内 町屋建物1


     貝塚寺内 町屋建物1         2003/ 1/ 3写真追加

ここで紹介しています町屋の内、9家32棟が平成14年12月6日、平成15年3月20日登録文化財に答申されました。
もう一家あるんですが、後日アップします。m(_ _)mペコ

「貝塚寺内」で歴史的なこと、発掘調査でわかったことを書きました。ここでは、現在に残る寺内の町屋についてご紹介します。新聞やケーブルテレビで良く紹介されるお家で・・・・。

「貝塚寺内 町屋建物3」の最後に写真を公表されているサイトをご紹介しています。

青山賢信1987『貝塚寺内町−町並調査報告書−』貝塚市教育委員会  からの引用ですが、一部現状に合わせて変更しております。
(一部2,000円、在庫あり。貝塚市教育委員会社会教育課文化財係にお問い合わせ下さい。0724-23-2151内線3342。宣伝はダメでしょうか?)



寺田家住宅
もと星野家住宅で東側道路を星野小路と称するのは当家に因む。元禄13年(1700)には年寄役を勤める。文化7年(1813)の「貝塚酒造米高帳」によれば、正徳5年(1715)には酒造株を有し、文化7年の酒造米高は680石であった。この時北之町には1040石の井筒屋惣左衛門、880石の加守屋庄右衛門、600石の上之郷屋利兵衛、560石の小間物屋吉五郎の4家、南之町に880石の丹波屋八郎右衛門、4400石の櫛屋兵助などの酒造家があったが、現在では主屋の他に酒造蔵を残すのは当家のみで、しかも一街区を占める形で残されているのは極めて貴重である。

屋敷地は一街区約425坪を占め、南東隅に南面して主屋を配し、残りは酒蔵等で囲まれる。主屋は桁行6.5間、梁間7間、屋根片入母屋造本瓦葺で、入母屋の妻を角地にみせ、反対側の切妻部分は、ツシ2階の壁面及び軒先端部分のみ1間だけ妻側に延ばし、外観を整えている。建築年代は明らかでないが、構造技法等からみて、17世紀末頃のものとみられる。

居室の部屋割りを何度か変えるなど改造は著しいが主体構造をよく残し、間仕切装置も一部復元が可能である。復元すると土間沿いに表からミセ8畳、ナカノマ8畳、ダイドコロ6畳を並べ、奥にミセオク6畳、ナカオク6畳、ザシキ8畳の部屋割りであったと考えられる。ミセの表側を出格子にし、側柱外側で建具3枚をミセオク寄り半間に片引に収め、ミセオクではミセ寄り半間に戸を片引に収める方式にしたのは、18世紀中頃の改造によるものと考えられ、ミセの表側は当初蔀戸形式であった可能性が推察される。ミセオクでは柱に中敷居仕日が数回あって、窓或いは戸棚が設けられていたらしい。

ナカノマ・ナカオク境中央に柱が復され、手前1間はミセ境柱の痕跡から踏み込み形式の戸口であったとみられる。これは慶安2年(1649)の今西家住宅(重要文化財、奈良県檀原市今井町)に類似する。ザシキの縁境には、手前から4分の3間に付書院が復され、背面には1.5間の床が設けられていたらしい。但し、このザシキは後述する屋根の改造時に改められた可能性も考えられる。

ナカノマ・ダイドコロは当初土間境を開放し、ダイドコロの奥側に設けた戸袋から板戸を引出して戸締まりしていた。ミセは床高を他より一段低くし、土間境は大戸日寄りに戸袋を設け、板戸による戸締まり方式の痕跡を残す。但し、当初は開放されていたのかも知れない。

構造は梁間6間で、棟位置は表側柱より2.5間の位置にあるが、ダイドコロ後半に旧屋根を残し、ナカノマ・ダイドコロ境通りには土間に架かる梁上に旧桁材とみられるものがあって、当初は棟位置が半間今より前方にあって棟高が低くなり、背面は主屋根が葺下げられていたと推考される。この改造時期は明らかでないが、18世紀末頃であろうか。天井は全て根太天井であった(ザシキは不明である)。

酒造蔵は主屋に続く北側蔵が最も吉く18世紀中頃、その西が19世紀前半頃、主屋西側蔵が最も新しく、明治〜大正頃と考えられる。

阪神淡路大震災の被害が大きく、2001年解体されました。残念です。



利斉(りさい)家住宅  平成14年12月6日 登録文化財に答申される
元文4年(1739)の「三宅氏系図」によれば先祖式部は泉州松尾山で出家して利斉と号し、織田信長兵乱の時(天正5年か)貝塚に来住して還俗し、子孫に至り利斉を家名にしたという。元禄13年(1700)には星野家同様に年寄役を勤めており、薬種屋で寺内の有力町人であった。

屋敷地は180坪程を占める。主屋は全体に古式で、17世紀末頃とみられ、寺田家とともに当寺内町で最古の部類に属する。

主屋は桁行8間、梁間4.5間、屋根切妻造本瓦の錣葺で南面して建つ。背後に大正期の離れ座敷(一部洋館2階建)を配し、主屋左手に2×10間の土蔵が建つ。

主屋は改造が著しいが主体構造はよく残っている。間取は復元すると8畳4室の整形四間取となる。部屋境の間仕切はミセ・ミセオク境のみが知られ、他は明らかでない。ただ背面側通り及び入側通りには柱が1間毎に配される古式がみられ、側通りでは1間3本溝の当初鴨居を残すが、縁側でこうした方式で戸締まりする形式は今の所他に例をみないものである。右手奥の間では、縁境の妻寄り1間に畳より5.4寸(16.4cm)上に敷居を入れて書院窓風に扱った痕跡を残すが、妻側は半間毎に柱が立ち、貫をみせ、ミセオク寄り半間が開口されるだけで、座敷的な扱いはされていない(半間の開口の用途は不明)。主人の居間であったろうか。とすれば、ミセオクが座敷であったとも考えられるが、奥の室との境の柱には鴨居の仕口があり、相対する表の側柱は後補材であるため確実性に欠けるが、妻側に落ち棟の座敷が取り付いていたとみた方が妥当なように思われる。現在は昭和9年建築の勉強部屋となるが、座敷を設けるだけの敷地の余裕を有している。居室表側は全面的に改造され、当初の形式は明らかでない。

土間は大戸口両脇柱が他より細く後補材とみられ、入口土間の天井大引、胴差の殆どは古材の再用か後捕材で、大黒柱通りの胴差は柱に横付けされ(旧仕口はない)、もとは台所士間を含めて小屋裏をみせた一つの空間であったと考えられる。大戸も片引であったろう(現在は片引大戸、中古は揚戸)。この様な土間の扱いは農家と同一であり、慶長12年(1607)建立の栗山家住宅(重要文化財、奈良県五條市)、慶安2年(1649)の今西家住宅(重要文化財、奈良県橿原市今井町)などの町家と規を一つにする。なお、土間の妻側は束・貫をみせるが、居室側は壁でこれらを隠すというこれまた他に例をみない方式が取られている。柱は側廻わりを含めて全て胴差でつなぐ進んだ方式が取られているが、中央柱通りは棟近くまで柱を立ち上げて桁行の梁を架け、この梁に1間毎に登り梁を架け、登り梁は側柱及び束に柄差しとしている。屋根は、表側では側柱より半間、裏側では入側柱より半間の位置で垂木を一段下げて母屋桁に落とし込み、錣葺とする。したがって錣葺を除くと丁度梁間は3間となる。

表の側廻わりや内部の改造がおしまれるが、全体に木柄が太く、古風な感じを与えるとともに、類例の極めて少ない形式がみられる。年代も府下の町家で最古の部類に属するなど貴重なものの一つである。(青山)

離れは敷地の北方、主屋の背後に中庭を挟んで建てられている。もともとこの場所には建物があったらしく、「先代の潔氏が25歳の時(満年齢で計算すると大正13年)に改築した。」という記録が残されている。材料の経年変化からみてもさほど古くはなく、大正13年頃の建て替えと考えてよさぞうである。

現存しないが中庭に見事な松の木があり、枝を切るに忍びなく、2階部分は枝を避け、洋間1室の平面としたそうである。またこの松に因んでこの建物を『松陽館』と呼んでいたという。

1階内部は、8畳と6畳の続さ間になっている。8畳は、書院付きの床・地袋付きの棚を配した伝統的な座敷で、一方6畳は物入れの網代戸、押入敷居下のなぐり材、櫛形の窓など随所に数寄屋風要素のみられる前室となっている。

2階洋間の内壁は、床から2m程をクロス張りとし、その上は天井までプラスターで仕上げられている。最近この壁も改装されたが、格天井、暖炉まわりのタイル張り、暖炉の左右に対称にしつらえた飾り棚となぐりの控え柱などは建築当初のままである。まテこガラス製の照明器具、窓のステンドグラス等、装飾意匠の質が高い。

外壁は当初、薄茶色のスタッコ壁であったが、95年の兵庫県南部地震後傷みがひどくサィディングに張り替えられた。妻上部の換気口まわりにも左官で仕上げた装飾が施されていたそうである。(田)

利斎家

離れ部分の記述は別引用。大阪府教育委員会2000『大阪府の近代和風建築』大阪府近代和風建築総合調査報告書

阪神淡路大震災で大きく屋根が崩れましたが、すぐに復旧されました。一番新しい建物で昭和9年築ですので、驚きですね。



岡本家住宅  平成14年12月6日 登録文化財に答申される
御下筋北端の角地に位置する。もと屋号を唐津屋といい、醤油製造業を営んでいた。主屋南側に醤油蔵、向いの帯谷印刷所の所に「もろこし蔵」があったという。

天保2年(1831)に北之町の年寄であった唐津屋市郎兵衛は浦方年寄の要請をことわり、また度々銀子調達を望まれるなど、当寺内の有力町人であったことが知られる。

主屋は桁行6間、梁間6.5間で西面して建ち、主屋左手街路沿いに土蔵3棟が建ち並んでいる。屋根切妻造、桟瓦錣葺。もとは右手土間妻側を入母屋造とする片入母屋造で本瓦の錣葺であった。前後を錣葺とするのは利斉家と同様である。建築年代は明らかでないが、角屋座敷が天保12年(1841)の建立であるから(棟札)、主屋はそれより古く、技法からみて18世紀中頃のものと思われる。

内部は近年の改造の他、天保12年の座敷建立時に居室後半を全面的に改めたため、当初の形式を明らかにし得ない部分が多い。主体の基本構造は良く残すので、それらによれば居室前半の8畳4室を基本にし、背面に主屋根を葺き下すか、角屋造で2室を設けた六間取であったと考えられる。但し、図版の復元図は天保12年改造時とした。この様な座敷付加による改造は当寺内町の六間取住居に普及しており、当家はその最も早い例となる。また、仏間・座敷は上段とされている。

小屋組をみると、土間・居室境及び妻壁は二重梁で中引梁を受け、ミセ・オクミセ境では柱を延ばして中引梁を支え、両側柱から登り梁がこの柱に柄差し栓止めされ、中間は中引梁に登り梁を架す。柱に登り梁を柄差し栓止めする工法は、他に数例がみ出される他、宇野家の最も古い鋳物作業場(江戸中期頃)でも用いられている。

なお、中央の蔵には安政4年(1857)建立時の木槌を残す。

岡本家

現在もなお旧来の形で大切にされています。

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