貝塚寺内町遺跡の分析


     貝塚寺内町遺跡の分析  

貝塚市教育委員会1998『貝塚寺内町遺跡発掘調査概要』貝塚市埋蔵文化財調査報告第43集掲載の改訂2
2005/4/20。2005/4/21現在。順次改訂します。

はじめに

 近年、中世都市史研究の戦後第2のブームと言われている1)。貝塚寺内についても「貝塚寺内町歴史研究会」が結成され、文献史学、歴史地理学等の分野にて様々な成果が報告されている2)。

 さて、1997年は寺内町研究において大きな発見があった。都市開発の中で大きく破壊を受けていた山科本願寺・寺内町において発掘調査が実施され、寺内を巡る濠跡、土塁、建物跡が発見されたのである3)。考古学的には不明であった山科本願寺・寺内町の様相が具体的な形で現れ、地元では大きな反響を呼んだ。これを契機に、地元山科では発見された遺構等の保存運動が展開され、寺内町をテーマとした連続講座が開催されるなど注目を集めたのである4)。

 中世都市史研究において寺内町は問題になるものの、その位置付けが明確ではない5)。比較的豊富に残る史料による分析は進んでいるものの、それ以外の研究については十分なものではない。

 貝塚寺内は近世を通じて常に町場であっため、現在も当時の細かい街区を色濃く残している。したがって、現在の建設行為自体が非常に小規模であり、それに伴う発掘調査は小規模にならざるを得ない。平成5年度以降、各種建築工事に先立つ発掘調査を本格化させたものの、各調査区での成果については、単独での位置付けが困難なものが多い。

 この様な状況下ではあるものの、近年、中規模以上の開発が頻発し、一定量の面積を発掘調査することが可能となった。これらの成果を活かすため、従前の調査成果を整理する必要が発生した。また、これらの成果から確定困難であった小規模調査成果の位置付けが可能になるという相関関係が生まれている。そこで小稿では、これまでの各調査を整理し貝塚寺内全体像の復元を試み、現状での問題点等を指摘する。

1.整理、分析の前提

 発掘調査は、昭和58年を嚆矢として平成9年にかけて計59ヶ所(65調査)を実施している。平成5年以降調査を活発化させたため、発掘調査の86%はこの年以降のものである。発掘調査とほぼ同数の立会調査を実施しているものの記録化に精粗があり、今回の検討では、一部立会調査例を含めるが発掘調査を資料の中心素材とする(表6、図52)。

 現在報告例は17例を数えるが、遺跡の規模、調査件数と比較すると十分なものではない。これらは各概要報告書等にて一定の分析を行い、寺内成立期前後の区画方向6)、和泉音羽焼に関わるもの7)、「濠」「土塁」に関するもの8)、寺内開発行為に関するもの9)等について公表している。今回の分析はこれらを前提とし、それぞれの詳細については特には記述しない。

 本寺内に関して本市が発行したものに、『貝塚寺内町−町並調査報告書−』がある10)。建築史からの分析であるが、町並等については現在最も纏まった成果である。発掘調査の目的はこの成果の検証を第一としている。建築史以外の分野については公表されたものも少ないため、比較、検証は十分ではないが、今回、考古学成果との対比が可能な部分について検証する。

2.史料による貝塚寺内

 史料等による本寺内の歴史は、寺内の中心寺院願泉寺に豊富な文書等が残るため、早くから分析されている。現状にて最も纏まりを持つものは昭和30〜33年の出版された『貝塚市史』全3巻である11)。今回市史第3巻史料に掲載された年表から、本寺内に関わる部分を抽出し新たに年表を作成した。作成するにあたり、第3巻史料に掲載された文書、近藤孝敏氏による史料紹介12)等を参考とし、一部再編した。また、現状で同時代文書が存在しない事象、存在していても公表されていないものについては疑問事象として抽出した。よって歴史的な流れはここでは記述せず、文末の年表を参照されたい。

3.地形(図53)

 本寺内は中、北、南、西、近木の五町からなる。地形の変化点に存在するため、まず、現地表から観察できる地理的な状況を説明する13)。

 本寺内の地形は河川、段丘、砂堆の大きく3つに分類できる。

 河川は3本流れている。北には寺内北辺を画する北境川、中央には寺内を横断する難波川、南には寺内南辺を画する清水川が存在する。それぞれ、段丘上から海(南東から北西方向)に流れ 開析谷を形成する。北境川は明確な氾濫原を有し、これらの中では最大の河川である。現状はいずれもコンクリート製U字溝の生活雑廃水下水路となっている。

 段丘は寺内の東側、約1/3を占め、海抜6〜10mを測る。段丘端部は比高約3m以上を測る崖となっており、現状でも寺内各所に存在する。この段丘は本市の平坦部の殆どを占める中位段丘であり、市内遺跡の多くはこの上に存在する。願泉寺は段丘最端部に位置する。

 砂堆は寺内西側に存在し、海抜2〜3mを測る。先の3河川の沖積作用によって形成されたものと考えられる。なお、北境川、清水川の寺内側にはそれに平行する自然堤防と考えられ微高地が存在するが、その状況把握は完全ではない。

地形と各町を対比すると、段丘上は北から北町の半分、中町、近木町、砂堆部は北から北町の半分、西町、南町、近木町の一部となり、ほぼ地形に沿った町割である。

4.地形分類による成果(図52、54)

 本寺内における遺構等のあり方は地形によって異なるため、ここでは前項にて分類した地形分類に沿って調査成果をまとめる。(以下カッコ内は図52調査地点番号)

・砂堆部海抜約2m地点(1〜14、37、40〜43、50、52、58)

 本地域は調査地22ヶ所を数える。小規模な確認調査が主体であるため、遺構の広がり等は明確ではない。土層断面観察を総合すると、数p〜数十pの整地を繰り返し、全体で約1mの整地層を形成する。調査例が西町、南町に集中しており、北町における状況は明確ではないが、出土遺物からすると、17世紀に開発が開始され、18世紀初頭以降造成が活発化していることが理解できる。特に南町東半は開発速度が早く、17世紀にはほぼ全域に及んでいる。南町、西町は17世紀以降断続的に開発が進み、19世紀初頭までには41地点南東側に接した市道まで町屋としての開発が完成していたと考えられる(3〜14、50、52)。北町は開発開始以降の遺物、整地層は顕著ではなく、町場として利用された形跡は薄い。幕末前後までは「浜」の状況を呈していたと考えられる(1、2、42、43)。40、41、58地点は整地層等は存在せず、現代盛土直下は砂層堆積のみであり、近世においては砂浜であり、開発は近代以降である。

・砂堆部海抜約3m地点(15〜22、36、39、46〜48、55)

 調査地は14ヶ所を数える。本地域についても確認調査が主体であるため、遺構等の把握状況は前地域とほぼ同様であが、2次調査を実施した地点が2ヶ所あり14)(20、22)、状況把握は比較的進んでいる。断面観察等を総合すると、数p〜数十pの整地を繰り返し、全体で約2mの整地層を形成する。整地を繰り返すことは2m地域と同様であるが、各整地層の厚みが増大する・遺物量が増加する等の特徴が挙げられる。

 特筆すべきことは、本寺内において最も古い時代の遺物が出土することである。遺物の年代に合致した遺構等からの出土は限られるものの、後世の整地層他から多量に出土している。列挙すると、15世紀代の青磁碗、16世紀〜17世紀初頭の青花、16世紀後半の朝鮮王朝白磁、16世紀後半〜17世紀の唐津、備前、瀬戸・美濃等の陶器、17世紀の肥前系染付磁器、16世紀の波状文軒平瓦15)、「○和六年二月」の銘を持つ丸瓦等である。紀年銘丸瓦は凹面糸切り法によるものであり、調整のあり方から年号に当てはめると、貞和6年(1345)若しくは正和6年(1312)と推定できる(15〜22)16)。

 遺構は非常に限定されるものの、遺物の出土傾向からすると、当地には16世紀後半に一定規模を持つ商業拠点的な集落が存在したと考えられる。ただし、その出現時期については不明であるが、青花の出土を重視した場合、少なくとも16世紀前半には開発が始まったと考えられ、青磁の出土を重視すると15世紀に遡る可能性は高い17)。

 砂堆部の調査を総合すると、現状から1〜2mの深さ、すなわち海抜約1mから集落化がスタートし、全体的には盛土により嵩上げすることが開発の基本であった。整地層の厚み、出土遺物の古さからすると、現状海抜3m地域が集落化のスタート地点と考えられる。また、瓦の出土から16世紀にこの地に寺院の存在が考えられる。

・段丘部(23〜35、38、44、45、49、51、53、54、56、57、59)

 調査地は23ヶ所を数える。調査地は難波川開析谷部分も含んでいる。調査内容の基本としては、数p単位の遺物包含層が1〜2層存在し、現状地盤から0.2〜0.5mの深さにて自然面に到達する状況であり、浅い切土、均し整地が開発の主体である。この地域は18世紀後半以降、特に幕末以降の遺構が多数存在し、遺物包含層の薄さ、数の少なさから、これらの時期にそれ以前遺構を破壊しているものと見られる(25〜28、49)18)。したがって、幕末以前の変遷等は明確ではない。特に近木町は近代以降、大幅に削平を受けており、それ以前の状況は全く不明である(29、30、38、59)。44、45、56地点は遺構、遺物は全くなく、開発は近代以降と見られる。

 遺物の出土傾向からすると願泉寺境内付近の北町、中町は17世紀代には開発が開始されるが、その後の状況は明確ではない。遺物量からその速度は遅いと推定できる。18世紀後半開発は活発化している。

 願泉寺境内では特筆すべき成果が幾つかある。23地点では現在の街区方向とは異なる方向の石列(石垣基底部?)を確認している19)。この成果をもって、寺内成立期の区画等云々されている。今回、調査記録を再検討した結果、上層の遺物包含層は幕末以降のものであり、この石列堀方はその直下から掘り込まれていること、時代を遡らせる遺物が全く出土しないことなど、石列を本寺内初期の時代に位置付けることはできないことが判明した。また、51、53地点20)では、現本堂建設時の盛土と推定できる砂層を中心とした大幅な整地層を確認した。この整地層は現本堂建立時のものであると推定したが、出土遺物は土師器細片のみであり時期決定はできない。願泉寺境内では幕末と見られる遺構、遺物は確認できるものの、それ以前の資料はこの整地層のみであり、遺構の存在は限定される。16世紀代の状況は全く掴めない。境内であるため町場と同様の遺構等は存在しないであろうが、周辺町場の動きとは連動しない状況がある。

 活発化した開発は幕末にピークを迎える。願泉寺境内においても幕末期の整地層が確認でき、ほぼ全体に広がると推定できる。

 段丘と砂堆の開発の関連を検証できると発掘調査例はない。両地形間には地形の部分で述べたとおり、今も崖が多く存在し、連続的な調査が不可能なためである。

5.寺内構造物の成果(図52、55)

 願泉寺に残る慶安元年(1645)銘を持つ寺内絵図は有名である。ここに描かれた濠、土塁、町屋の状況、街路街区はしばしば引用される。寺内の状況を考える上では、絵図を避けることはできず、ここでは濠等の寺内を形成する構造物について、慶安絵図とそれを現地形に比定した青山賢信氏の照合図21)を主として、その種別毎に検証する。

・濠

 青山氏によって濠が推定された地点に実際に確認できたもの2例(36、33)、存在しなかったもの3例(34、35、37)、推定地以外で確認したもの2例(32、20)計7ヶ所が対象となる。

 36地点22)では位置、方向共に推定どおりの濠跡を検出した。南肩部のみの検出であり規模の詳細は不明だが、石組み等の護岸構造は持たず素掘りのものである。出土遺物は少なく濠の開口時期は明確ではないが、17世紀〜18世紀初頭頃の遺物が出土し、後者の時期には埋められている。この濠は東側にある段丘崖に沿って設置されていたことが推定できる。33地点23)は肩部等の検出はできなかったものの、調査対象敷地内のほぼ全域において、濠埋土と見られる粘土等の堆積を確認した。現地表となっておる近代から現代にかけての整地層(約1m)を除去すると黒色粘土、灰黄色細砂の堆積を確認した。堆積厚は0.4〜0.8mを測る。埋没時期は出土遺物から明治初頭前後が与えられる。

 3424)、3525)地点については、現地表下数十pにて自然面に到達し濠は存在しない。34地点は33地点の南東隣であり、両成果をもって北東〜南西方向の濠が復元できる。また、濠は先の照合図よりも北西にづれて存在することが明らかになった。37地点26)では北境川の氾濫原内を確認し、遺構等は全く存在しない。地盤状況は非常に脆弱あり、この地点に濠を掘削できるとは考えられない。また、例え掘削できたとしてもその後維持は不可能であろう。

 32地点27)では北東〜南西方向の黒褐色粘土を埋土とする落ち込みを確認した。東側肩部のみの検出であり、深さ1.6mまで掘り下げた段階で掘削を中止したため、濠底部深度は確認していない。また、出土遺物もない。そのため、調査当時は濠との認識がなかった。しかし、その後の調査でこれだけの規模を持つ遺構は濠に限られるため、現在は濠と認識している。遺物が出土しないので、濠の開口時期は不明である。本遺構は慶安絵図推定地ではないが、青山氏による享保17年(1732)絵図照合図の卜半墓所を囲繞するとされる濠に合致している。ただし、墓所対岸南東側は調査資料がなく、囲繞していたかは不明である。20地点28)では段丘崖下において幅4.5m、検出長7m、深さ1.8mを測る大溝を検出した。本遺構は調査区外に広がること、調査区内で途切れることなどから濠とするには問題を持つが、規模的には濠以外想定できない。遺物は青花等多数出土し、16世紀後半から17世紀初頭頃掘削され、18世紀後半以降に人為的に埋められている。この濠は絵図には一切表現されておらず、新たな発見となった。位置関係からすると卜半役所の門前を区画する濠の可能性が高い。

 上記7ヶ所の調査をもって即断することは焦燥ではあると思われるが、以下の推定ができる。

 濠は段丘上でほぼそれを横断する形、寺内南東辺において設置されている。33地点のものはそのまま北東にのび直線的に北境川まで続く。しかし、川に直結していたかは現状では不明である。この部分の年代は出土遺物が少ないため明確ではないが、埋没は18世紀後半から幕末、明治初頭にかけてと推定できる。北境川に接する寺内北東辺には人工的な濠はなく、川が濠の役目を担っていた。32地点は先の照合どおり卜半墓所を囲繞していたという調査成果はないものの、近木町内、38地点南側付近等をとおり段丘崖下に続く。この地区の年代もほぼ先のものと同様とできる。 砂堆部では、段丘上同様北境川付近には濠はない。36地点のものは段丘崖直下から続きそのまま清水川、南東方向へ直進していく。ただし、ここについても川に直結していたかの判断はできない。また、段丘崖の部分も接続しているかは不明である。36地点から西側の調査成果はないが、清水川に接する寺内南西辺についても濠はないと推定できる。この地点の年代は先に示したとおり36地点の18世紀初頭埋没である。20地点のものの広がりは現状では不明であるが、年代的にはこの地点が最も古く、16世紀後半から17世紀後半である。

 各遺構の開口時期を確定することは困難であるが、概ね段丘上の濠は年代が新しく、砂堆部のものは古い。時期的に集落拡大状況に類似した状況が推定でき、砂堆部のものは16世紀後半以降、段丘上は17世紀に入ってから掘削・設置されたとできる。

・土塁

 絵図に描かれた海岸部を除く三方の土塁は現存しない。18世紀以降町場として発展する過程において破壊されたものと推定できる。土塁が推定される31地点29)の調査では、19世紀の土坑を多数検出したが土塁の痕跡は全くない。32地点においても先のとおり確認できない。27地点30)についても、31地点同様幕末の遺構を検出している。調査例が3例と、土塁推定地の調査絶対量が少なく検証のための資料は整っていないのが現状である。地上構造物は地下に何らかの基礎構造が存在しない限り発見は困難であり、今後も発見が期待できる可能性は低い。特に段丘上に関しては不可能に近い状況にあると言える。

 近年、絵図以外の発見があった。平成7年に実施した4地点の調査では海岸線とほぼ並行に連なる土塁を確認した31)。断面台形を呈し、幅上端約1m、下端約2m、高さ約1mを測る。現地表下1〜2mに存在しており、盛土造成を主体とする砂堆部に位置していたため遺存したと言える。調査担当者は個人蔵である元禄絵図に描かれた「浜際通り」と並行する施設と判定している。また、平成8年に実施した1地点32)の調査では、4地点とほぼ同じ距離内陸側に入った地点において、同一の方向・規模の石塁を検出している。この2点の調査から、これらが連続して海岸部に設置されたと即断することは焦燥であると思われるが、先の4地点のものの性格付けは別として、海岸側に絵図に描かれない区画施設が存在したことが推定できる。年代的にはそれほど古くはなく18世紀以降のものである。

・街路、街区方向

 発掘調査によって確実に街路と見られる遺構は確認できていない。調査が宅地内に限定されることが原因であると言えるが、逆に慶安絵図の街路を現在も踏襲している証拠と言えよう。

 現在確認している溝等の遺構は基本的には街路方向に合致する。各調査地において、この方向に合致しないものも確認しているが、それが占める割合は非常に低く、規模も小さいため、これらが街区の基本方向を示しているとは認め難い。

 願泉寺境内(23)における調査にて現状街区と方向が異なる石組みを確認しているが33)、先に指摘したとおり、この方向性をもって街区の方向性を検証することはできない。

 慶安絵図にある状況がいつから作られたのかが問題となる。現状で方向性が理解でき、年代が確定できる最も古い例は先の20地点の濠である。16世紀後半から17世紀初頭に掘削されたと見られ、方向も現状街区方向に合致している。現在の成果では、慶安絵図街区の出現は16世紀後半を上限とできる。この点については後に考察する。

・屋敷地状況

 調査では、井戸、便所、溝、柱基礎、ゴミ穴等を検出しているが、遺構の重複が激しいこと、後世の攪乱が多いこと等から、遺構の相関関係を確認できる例は少ない。屋敷地内での建物配置など具体的な様相は明らかにできていない。4地点では方向性の異なる建物跡を確認しているが、時期が確定できない、周辺にて検出した遺構等との方向が整合しない、簡易で臨時的な建物である等の問題を持っており、現状では検証資料にできない。

6.寺内の変遷

 以上、調査についてその概略を示し、地形、構造物等分類毎にまとめたが、ここでは全体について総括する。

 集落の出現としては、現状では16世紀初頭から前半の時期が考えられる。段丘下の現状海抜約3mを測る地点に一定規模を持つ集落の存在が推定できる。青花等の出土からこの集落は農村、漁村的なものではなく、街道沿いの商業拠点的な集落と言える。図示した方形区画は現状地形からのものであり、当時からこの範囲、街区を持っていたということではない34)。

 これらは遺物からの推定であり、今後の調査によって、時期的に更に遡る成果が期待できる。

 16世紀後半は遺物量が前代より増加し、その内容からすると16世紀前半より更に都市的な集落に成長した言える。地域的には先に示した地域を出ない。また、この段階で瓦を葺く寺院の存在が考えられる。

 砂堆部では17世紀、広い範囲に開発が進んでいる。16世紀代の集落部分から南町の方向(西方向)には先行して開発され、寺内南西部分は先行して整備されたと言える。段丘上の状況は、確実な資料に乏しく明確ではないが、願泉寺周辺部分は17世紀前半には開発が始まったものと考えられる。

 寺内で紀年最古の絵図である慶安絵図に見られる街区は、現状資料では20地点の濠によって、16世紀後半から17世紀初頭にその初現が求められる。しかし、推定の時代幅が大きく、掘削の下限として17世紀初頭は有効であるが、16世紀後半は推定域を出ない。また、比較検証する資料も存在しない。16世紀については先に示した砂堆に開発が限定されるようであり、広がりを持つのは17世紀になってからである。現状ではこの街区の出現は17世紀初頭を遡らないと言えよう35)。

 18世紀は開発が寺内のほぼ全域に広がる。先行していた南町では初頭段階で濠の埋め戻しが完了しているほどである(20)。土塁等もこの時期にすでに破壊が始まったと推定できる。発掘調査においても、特に18世紀後半の遺構、遺物が存在する。幕末から後の遺構しか存在しない調査地においても、18世紀代の陶磁器等が多量に出土し、今で言う「開発ラッシュ」的な状況が以後続く。しかし、北町においては、北部、西部は未開発地域が残っている。

7.他分野研究との対比

 以上、貝塚寺内について考古学的にまとめた。ここからは、この成果を基に文献史学等先行研究との比較を行う。なお、今回は明らかに考古学成果と異なる点について対象とするが、資料的に不十分なものも多く、以下は箇条書きにて表す。

(1)集落出現期

 文献史学等では、本寺内の初現期状況は確定した集落ではないと否定的な見解である36)。天文19年(1550)以降「原寺内」となり、本願寺が置かれる天正11年(1583)から発展したとする。しかし、先述のとおり、遺構は未発見であるものの、出土遺物からは16世紀中頃には、商業拠点的な集落が存在したと考えられ、16世紀前半には一定の規模を持つ集落であったことが窺える。文字記録を無批判に信用できない状況が判明している。

(2)天正5年(1577)信長軍破却

本寺内の由緒書として有名な「貝塚寺内基立書」がある。天正15年(1587)、富田頼雄が表したとされ、従前の研究ではこの記述が基礎になって分析が進められれいた。その中に「天正五年兵乱ニ草堂・人屋悉ク破却ス」とあり、このことから貝塚市史では「焼土と化す」と表現されている。天正五年の兵乱とは、本寺内が和泉国一向一揆の拠点となって本願寺を支持したため、信長軍によって攻撃されたことである37)。

 堺では兵火後のかたずけ層が堆積し、その層が時代判定の鍵層になっている38)。発掘調査では、幾つかの地点において、敷地全面を覆うような焼土層、炭混じり土層は確認できる。これは近世、特に18世紀以降の火災等をかたずけた整地層と考えられる。しかし、寺内全域を覆う様な焼土層等は確認できない。後の開発によりすべて削られたともできるが、痕跡も確認できない状況であり、一部の家屋等が破壊される様な状況は想定できるが、寺内全域を焼き尽くす様な破却はなかったと言えよう。

 先の「基立書」も近藤孝敏氏によって史料批判なされ、紀銘年に作成されたものではいないこと、一定の事実を含むものの、後の時代にある意図をもって書れたものであることが明らかにされている39)。また、『信長公記』40)には破却の記載はなく、現状では直接の記録は存在しない。

(3)願泉寺の位置

 後に願泉寺の寺号を得る寺院の変遷は、史料より草庵(建設年代不明)、天文19年(1550)草庵再興、天正8年(1580)道場(板屋道場)再建、慶長3年(1598)本堂新築、寛文3年(1663)現本堂建立とされている41)。慶長以前のものは草庵、板屋等、その名称から瓦葺き建物を想定されていない。

 20地点では16世紀の波状文軒平瓦、「貞和6年(1345)若しくは正和6年(1312)」と推定できる紀年銘丸瓦が出土し、史料からの変遷に合致しない成果がある。

 波状文瓦が16世紀代のどの時期にあたるのかは、この時代の瓦研究が十分でなく確定できないが、16世紀後半代には瓦葺き寺院の存在が推定できる。14世紀の瓦については、浄土真宗以外の寺院の存在を示唆している可能性があり、この点は更に検討が必要である。

 次に位置の問題である。これまで先の変遷についは、すべて段丘上の現境内を動かないものとされている。

 先述のとおり、16世紀の集落域は砂堆上であり、段丘上に痕跡は存在しないこと、また、境内に寛文以前の遺構等が存在しないこと等の状況がある。16世紀に現境内において寺院を想定できないのである。瓦の出土からすると、16世紀では砂堆部集落内に存在し、段丘上には17世紀開発開始前後に移動・建立されたと言える。

 史料の内容が事実であるとの前提でここでは述べたが、史料は事実であるのか。草庵から慶長にかけてのものは、現在同時代史料が確認されていない。天正までのものは先の「基立書」からのものであり42)、慶長は後の時代のものである43)。寛文については建設時の「奉加帳」が存在するので確定している44)。したがって、これら史料が全くの偽りであるとの史料批判はできないものの、必ずしも事実のみを記載しているとは言えないであろう。

(4)人口の変動

 史料では、宝永7年(1710)7,536人を最高として、以後人口は減少するとされている45)。本寺内では18世紀以降は開発ラッシュの状況であることは先述した。出土遺物からすると、人口減少は考えられない。

 人口減少原因としては、近世後半に経済活動が活発化し、富裕層が増加、それに伴う敷地占有面積の拡大から、それ以外の人間は寺内外へ移住したとの考えが提示されている46)。これは合理的な理解であるように見える。しかし、近世の遺構が確認できる殆どの調査地点では、ゴミ穴、井戸が多数確認でき、また、日常雑器である陶磁器が大量に出土することから、考古学的にはこの理解は肯定できない。

 現状確認している遺構、遺物からこの原因を確定する術はない。経済の活発化は確認できるので、例えば、それに伴う周辺地域からの通いの使用人・職人の増加、日用の雇用等47)、昼間人口と夜間人口の差、寺内周辺新町のベットタウン化等の原因が考えられるのではないか。

8.今後の課題

 小稿では、考古学的に推定できる集落の変遷について述べてきた。調査面積が少ないため、推定の域を出ない解釈も多い。再構築の必要に迫られる可能性も大いにあり、今後の発掘調査の進展、資料の増加を待って、順次訂正していきたい。

 しかし、目的である本寺内の概要をまとめ課題点を抽出することは一応達成できたと考える。また、史料等の記録が存在するからといって、それを無批判に信用できないことも明らかにできたと考える48)。

 では、本文中にて示した解釈を基にして、今後の発掘調査の課題、方向性について述べまとめにかえたい。

 本寺内における旧地形、遺物包含層(整地層)のあり方は、ほぼ把握できた。したがって、ここで見たように全体像の解釈、大まかな変遷については言及可能なレベルにある。しかし、歴史地理学で取り上げられる街区、街路等都市計画の部分については理解不可能である。寺内の成立、後の変遷を詳細に解明にするためには、これを明らかにできる調査を実施することが第一の課題である。しかし、細かい宅地割の現状では纏まった調査は不可能であり、小規模発掘調査を計画的に繰り返し資料の収集をはかるしか方法はない。

 今回全く解明できないものとしては、砂堆部と段丘部の開発の繋がりがある。古くから段丘崖が存在しているため、繋がった利用・開発はなかったとも理解できる。しかし、現状の難波川開析谷から近木町にかけて緩やかな斜面が広がっており、近世に崖に対する何らかの開発が存在した可能性は高い。本文でも見たとおり、調査成果の解釈についても、殆どのものが崖によって断ち切られる状況にあり、先の課題共に大きな課題と言える。

 町場の状況は先の様に一定の把握が可能になったが、寺内中心願泉寺の状況は推定レベルの比重が大きい。調査件数が非常に少ない上に連綿と寺院が営まれた地であるため大幅な改変がなかったと理解することは簡単である。しかし、現地盤表層付近にて幕末の整地層、遺構、遺物を確認できるの対して、それ以前の遺構等を殆ど確認できないという点は大幅な改変がなかったと言うことだけでは理解し難い。大幅な改変がないのならば、古い時代からの遺構が良好に残っているとなるのが自然ではないか。願泉寺自体の移動と言う点も視野に入れ49)、更に調査を行う必要がある。

 以上、本寺内について述べてきたが、極言すれば、中世末以降の集落変遷を推定したに過ぎない。歴史学においても「寺内」は明確に定義されておらず50)、考古学的に何をもって「寺内」とするのかが定義できない現状において、これが限界であるのかもしれない。しかし、通常の集落とは異なり、豊富に残る史料から得られる細かい事象、他の寺内との直接比較が可能な街路街区等、学際的に調査・分析できる好例であり、共同研究することによって、新しい方法論が生まれる可能性を秘めていると考える。また、新しい方法論無しには解明できないと言えよう。




1 仁木 宏1995「戦国・織豊期都市史研究の一視角−寺内町論のためのノート−」『年報 都市史研究1 城下町の原景』都市史研究会編 山川出版社 
2 貝塚寺内町歴史研究会1995『寺内町研究創刊号』 貝塚寺内町歴史研究会1997『寺内町研究第2号』
3 (財)京都市埋蔵文化財研究所1997,6,7『山科本願寺跡 発掘調査現地説明会資料』 (財)京都市埋蔵文化財研究所1997,9,6『山科本願寺跡(2) 発掘調査現地説明会資料』
4 山科本願寺・寺内町の歴史を学ぶ会1997〜1998『市民講座』
5 仁木 宏1997『空間・公・共同体−中世都市から近世都市−』Aoki Library日本の歴史 青木書店 
6 貝塚市教育委員会1985『貝塚市遺跡群発掘調査概要Z』貝塚市埋蔵文化財発掘調査報告第9集
7a 貝塚市教育委員会1994『貝塚市遺跡群発掘調査概16』貝塚市埋蔵文化財発掘調査報告第32集
 b 拙稿1995「貝塚寺内町の遺構と出土陶器について」『貝塚市遺跡群発掘調査概17』貝塚市埋蔵文化財発掘 調査報告第35集 貝塚市教育委員会
8a 前掲7b
 b 拙稿1997「貝塚寺内町遺跡の外周構造部について」『貝塚市遺跡群発掘調査概19』貝塚市埋蔵文化財発掘 調査報告第40集 貝塚市教育委員会
9 貝塚市教育委員会1996『貝塚市遺跡群発掘調査概18』貝塚市埋蔵文化財発掘調査報告第38集 貝塚市教育委員会
10 青山賢信1986『貝塚寺内町−町並調査報告書−』貝塚市教育委員会 
11 貝塚市役所『貝塚市史』第1巻通説1955、『貝塚市史』第2巻各説1957、『貝塚市史』第3巻史料1958
12a 近藤孝敏1995「貝塚寺内の成立過程について−「貝塚寺内基立書」の史料批判を通じて−」『寺内町研究 創刊号』貝塚寺内町歴史研究会 
 b 近藤孝敏1996「貝塚寺内町関連資料集」『貝塚寺内町遺跡』貝塚市埋蔵文化財調査報告第39集 貝塚市教育委員会
 c 矢内一磨1995「願泉寺本堂再興造立奉加関係文書について−寛文三年の本堂再興に関する奉加帳のデータベースによる紹介−」『寺内町研究創刊号』貝塚寺内町歴史研究会
13 ここに示す分類は筆者に観察によるものであり、地理学による裏付けがあるものではない。また、現状地形からの判断であり、古くからこの状態であったということではない。
14 貝塚市教育委員会1998『貝塚寺内町遺跡発掘調査概要』貝塚市埋蔵文化財調査報告43集
15 市本芳三氏のご教示による
16 近藤康司氏のご教示による
17 中世遺物については各調査において数点程度出土するものの、摩滅したものが多く、近世段階に建築用粘土 等に混入して持ち込まれたと考えていた。しかし、近年の調査では、摩滅の少ない土器類片、磁器片、瓦片を 発見できるようになり、先の原因だけではない遺物も存在する可能性が出てきた。更に20地点では古代に遡 る須恵器、土師器が出土している。
18 切土した残土等は寺内周辺地域に廃棄したことを想定した。   拙稿1997「貝塚市内発見の粘土採掘土坑」『加治・神前・畠中遺跡発掘調査概要』貝塚市埋蔵文化財調査報告第42集 貝塚市教育委員会
19 前掲6
20 貝塚市教育委員会1998『貝塚市遺跡群発掘調査概20』貝塚市埋蔵文化財発掘調査報告第46集
21 前掲10
22 貝塚市教育委員会1997『貝塚市遺跡群発掘調査概19』貝塚市埋蔵文化財発掘調査報告第40集
23 未報告 平成4年以前、調査時点において近世以前の遺構等を確認できない調査については重視しておらず、このため未報告のものが多い。以下、未報告の理由はこのとおり。
24 貝塚市教育委員会1995『貝塚市遺跡群発掘調査概17』貝塚市埋蔵文化財発掘調査報告第35集
25 前掲14
26 未報告
27 未報告
28 前掲14
29 前掲24
30 未報告
31 中村 浩編1996『貝塚寺内町遺跡』貝塚市埋蔵文化財調査報告第39集 貝塚市教育委員会
32 前掲22 
33 前掲6
34 図上表現では水田氏と類似した地域を想定しているが、現在の地形図上で表現したためであり、当初から現状方向で方形街区を想定していない。厳密な地点、街区等は現状では判断できない。また、想定地域について も水田氏のものより南東に広く、段丘直下までを想定している。
 水田義一1997「貝塚寺内町の成立過程−歴史地理学的考察−」『寺内町研究第2号』貝塚寺内町歴史研究会38
35 年代的には前川要氏の論を補強した結果となったが、本寺内では前川氏の言われる大幅な改変は認められず、成立後徐々に形作られた言える
 前川 要1991『都市考古学の研究−中世から近世への展開−』柏書房 
36 前掲12a  
37 前掲12a
38 樋口吉文1980「堺 中近世環濠都市発掘調査報告」『堺市文化財調査報告第6集』堺市教育委員会 
39 前掲12a
40 太田牛一原著、榊山潤訳1980『信長公記(下)』教育社 
41 前掲12c
42 前掲12a
43 前掲11 第3巻550項延享三年(1746)の文書
44 前掲12c
45 前掲10
福尾氏は元禄をピークに減少するとしている。
福尾猛市郎1941「近世寺内町の性質−特に和泉國貝塚寺内町について−」『紀元二千六百年 記念史学論文集 別冊』
  人口記録はどのような人々が対象になるのか、筆者は理解できていない。しかし、人口については、数種の資料が使用され、また、後世の文書も含まれている。人数については、文書が作成された目的に関連した数字であると考えられる。クロスチェックしていない状況では当事の近似値と考えた方が良いのではないか。
46 前掲45
47 脇田修1994『日本近世都市史の研究』246項 東京大学出版会 
48小稿で何度も登場する近藤氏が、これまで寺内記述の根本としていた「寺内基立書」を痛烈に史料批判しているのが好例である。 前掲13
49 願泉寺の位置について論じたものは管見ではない。位置は当初から段丘上にあるという前提で論じられているものだけである。
50 前掲5
参考文献
貝塚市教育委員会1993『貝塚市遺跡群発掘調査概要15』貝塚市埋蔵文化財調査報告第29集

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