貝塚寺内町遺跡


     貝塚寺内町遺跡  

『寺内町研究』 第4号 1999 貝塚寺内町歴史研究会 掲載の改訂1
2005/4/22。順次改訂します。

はじめに

 貝塚寺内は先学によって様々な分析がなされていることは周知の事実である。更に、本研究会によって新たに調査・分析が進められ、本寺内の歴史解明は深化しつつある。

 さて、本寺内のこれまでの分析は文献史料を中心としたものであり、考古学手法を用いた分析は皆無に等しかった。発掘調査・報告例が少ない状況であったためであるが、数年来、小規模と言えども多くの発掘調査を実施し、一定量の史料蓄積はある。これらについては平成九年度における発掘調査報告書においてまとめたが(1)、考古学資料以外を援用しなかったため、独善的な部分が多いと考える。

 そこで、今回は考古学資料と直接対比可能な絵図との比較を行い、先に公表した考古学成果の深化を図りたい。

一  (小稿の一は、「貝塚寺内町遺跡の分析」1から6の再録。よって省略。)

二 寺内絵図

 願泉寺には多くの文書が残されており、その中には絵図、切り図等も多量に含まれている。管見では慶安元年(一六四八)、元禄九年(一六九六)、享保十七年(一七三二)、寛 政二年(一七九○)二枚、文政元年(一八一八)、慶応四年(一八六八)、明治二年(一八六九)、明治四年(一八七一)九点の紀年銘全体図、年代不明全体図三点の計一二点が願泉寺に所蔵されている。その他切り図等部分を描いたものが存在する。また、元禄九年(一六九六)個人蔵が一点、慶安頃のものが府立岸和田高等学校に一点所蔵されており、全体図については計一四点が確認できる。ただし、元禄、寛政、文政については付箋等による記載であり、表現は当該時期の様子ではないので、絵図をこの年代に当てはめることはできない。よって、年代がはっきりするものは個人蔵を含め六点となる。

 先の分析において一部絵図を使用したが、青山氏による絵図の現地形図照合図を使用したものであり、間接的な比較である。今回は上記の内、記年銘のあるもので内容が明確に判別できる、慶安元年(一六四八)、元禄九年(一六九六)(個人蔵)、享保十七年(一七三二)、慶応四年(一八六八)、明治四年(一八七一)五点を使い直接比較検討を行う。

 検討にあたって、原図を撮影した写真プリントから複写機によって拡大、トレースを行い検討資料とした。また、各図を比較するために、絵図に記載のある「上方口」から「紀州口」の距離を現況地図一/四,○○○にほぼ合わせトレース原図を作成し、本書褐載にあたっては一/八,○○○に縮小している。

 なお、以下の図中で街路・区画線のずれ、途切れは、絵図の折れ、欠失であり、そのような表現ではないことお断りする。また、以下の文章中では北之町等旧町名にて表記する。

・慶安元年(一六四八)(図5)

 本絵図は本寺内全体を示す最古のものとして周知されている。表現される範囲は現存する絵図では最も広く、寺内周辺の状況が詳細に描かれる。寺内外に点在する仏供田畠が詳細に描かれ、これらを図示することが目的の一つとして描かれたと推定できる。

 寺内の状況は、街区は白抜きで着色はなく、街路は線書き、紀州街道は他のものより幅広に表現され、朱が入れられている。住居は街路に接した部分のみ描かれる。河川、濠とされる部分は淡い水色にて着色し、濠外側は松林の表現、内側はそれとは異なった直線状植物の表現であり竹林と推定できる。竹林の中に松木が点在する。なお、寺内南東端濠外側には、松林等の表現はない。これらの表現を素直に解釈すると、濠の両側に土量が存在したとできる。濠は南東部分(感田神社からE、F地点まで)が最も明確に描かれ、海に向かって不明確になる。

 北之町東側(G地点)は街路のみでなにも描かれておらず未開発の状況が表現される。H、I、J地点は崖の表現があり、段丘崖、自然堤防崖である。寺内内部には名称等の記載は一切なく、筋名、寺院名もない。寺院等は感田神社、願泉寺が明確に描かれるものの、その他はそれほど明確ではなく、中央に本堂、周囲に生け垣のような表現がある程度である。

 上方口(A)〜紀州口(B)(北東〜南西方向)の距離を一とすると、C〜D(北西〜南東)距離は○・六となり、現在地形とは整合ぜずやや扁平な形状に描かれる。以下、この地点の比率を提示する。なお、現在の地形では一:〇・六七となる。(図2、A〜B:C〜D)

・元禄九年(一六九六)(図6)

 本絵図では、街路は赤線、区画・寺院は黒線、河川・水路は水色、土居・墓所は緑色・松木と表現される。周辺農地は白抜き。各町は着色され、中之町は灰色、近木之町は茶色、北之町は黄色、西之町は淡桃色、南之町は暗黄色と色分けされている。近木之町口内側の町屋表現はない。北之町東側(G地点)は「田地」と記入され白抜き、北部(H地点)も同じである。北之町崖部分は松木が表現される。

 「上方口、紀州口、近木之町口、中之町口、北之町門堀之町口、近木之町門裏之側口」など出入り口の名称が記載され、筋名はない。「海際通り六町半」、上方口「川幅一間五尺六寸五分」、北町東側「土居幅廿一間中筋二幅三間ノ堀有」、近木之町南東「土居幅六間」、南西「土居幅廿五間内中筋二幅ご一間ノ堀有」等と規模が記載される。

 願泉寺、感田瓦明神、宗福寺、尊光寺、妙泉寺、上善寺は地点を白抜きし、寺院名が記載される。願泉寺南東側中之町内に寺僧として泉光寺、要眼寺、満泉寺、正福寺、真行寺の名称が記載されるが位置は記入されていない。

 濠は感田神社からE、K地点までの表現となり、そこから海に向かって溝状の表現となる。東側は紀州街道まで、西側は清水川に接続する。濠周辺はすべて松林の表現となり、範囲も縮小する。北之町東側(G地点)は田地と記載され、慶安絵図では濠であったH地点は松林を除き田地となっている。自然堤防崖表現は残り、町は北東にのびる表現となっている。南之町は清水川まで町場を広げている。海岸方向は41地点(図1)南西まで広がる。A〜B:C〜Dの比率は一:○・六七となり、現在の地形に近い。

・享保十七年(一七三二)(図7)

 本絵図では、街路は赤線、区画・寺院は黒線、河川・水路は水色、土居・墓所は緑色・松木に表現される。周辺農地は白抜きであり、「田畠」「畠」と記載される。各町色分けはなく黄色一色の着色である。

 「上方口、紀州口、近木之町口、中之町口、堀之町口、裏之側口」など出入り口の名称、「堀之町筋、谷町筋、近木之町筋、裏之筋など筋名が記載される。土居、濠等の規模の記載はない。

 御堂、尊光寺、真行寺、泉光寺、満泉寺、正福寺、要眼寺、妙泉寺、上善寺、宮は各地点を白抜きし、上記の名称を記載する。

 濠等は元禄絵図表現をほぼ踏襲しているが、「田地」とされていたものが一部を除いて「畠」となっている。H地点の崖表現が無くなり、G地点の町場化が多少進んでいる。墓所の南東側、近木之町口内側に町場が表現される。

 A〜B:C〜Dの比卒は一:○・六六となり、現在の地形に近い。

・慶応四年(一八六八)(図9)

 本絵図では、街路・区画・寺院はすべて赤線、河川・水路は水色、土居・墓所は緑色・松木と表現される。山側の農地は暗緑色で着色する。各町色分けし、中之町は灰色、近木之町は赤色、北之町は茶色、西之町は灰水色、南之町は黄色で着色される。北之町東側は薄い茶色、感日神社と中之町の間は薄い灰色、近木之町南東側は薄い灰色で着色する。

 「上方口、紀州口、近木之町口、中之町口、北之町門堀之町口」の記載はあるが筋名はない。「海際通り六町半」、上方口「川幅一間五尺六寸五分」、北町東側「土居幅廿一間中筋に幅三間堀有」、近木之町南東「土居幅六間」、南西「土居幅廿六間内中筋幅一二間堀有」と川幅や土居の規模の記載が復活する。

 願泉寺、尊光寺、其行寺、泉光寺、満泉寺、正福寺、要眼寺、妙泉寺、上善寺、感田大明神は地点を白抜きし、上記の名称を記載する。

 北之町は砂堆部では北境川まで町場が拡大するものの、G地点は東側に若干拡大する程度であり、農地利用が継続することが読みとれる。

 A〜B:C〜Dの比率は一:○・六三となり、現在の地形に近いがやや扁平。

・明治四年(一八七一)(図10)

 本絵図は、基本街路は赤線、区画は黒線、濠は赤字「イケ」、松林は「荒地」、墓所は「墓」と記載する。寺僧、尊光寺、願泉寺、妙泉寺、上善寺、宮、宗福寺の名称を記載し、寺内周辺の字名、北之町北東端、南之町南西端は「畠」と記載する。その他の記載はなく、白地図の状態であり、これまでの絵図と対象的である。

 A〜B:C〜Dの比率は一:○・六三となり、現在の地形に近い。

 ここで取り上げた絵図はそれぞれ作成された目的は異なることが考えられる。しかし、以下の特徴が抽出できる。
l、慶安を除いて、規格が共通し、現在の地形に良く合致する。(一:○・六五)
2、表現が共通する。
3、時代経過に応じて町場が拡大する。

 元禄から明治までは一七○年以上あり、長期にわたり規格、表現を路襲するということは、これらを作成するにあたって、何らかの原図が存在した可能性は高い。また、その原図は現地形と比率が非常に類似しており、ある程度の現地実測に基づくものであったことが想定できる。

 松林の表現が時代が下り省略されていることから、前代のものを順次書き写した可能性も想定できる。しかし、松林等は省略しているにもかかわらず、位置関係、規格は忠実に踏襲されている。順次の書き写しによってこのようなアンバランスなことを行うことは考え難い。全体的に省略するのではないだろうか。

 絵図の基本となる街路、水路、濠、寺院等の部分は元禄以前に作成された原図に基づいて描かれ、省略化される松林、変更の多い町屋部分等は順次切り図などで追加描写したとすることが妥当であろう。

 なお、慶安絵図については先述のとおり、絵図表現から寺内外の状況を示すことが目的であると推定できるので、街路については信憑性は高いものの、住居等寺内内部の表現の信憑性は疑問である。大阪府立岸和田高等学校に同時代のものと見られる絵図が所蔵されている。それには街路は描かれるものの建物表現はなく、寺内内部は白図状態である。このことから、慶安絵図については、寺内内部の規格等を検討するための資料としては除外しなければならないであろう。

三 考古学成果と絵図との比較

 ここでは先述したそれぞれの成果を比較検討する。なお、絵図と現地形図を先のA〜Bを基準として比較した場合、比率が類似することを利用して、直接重ね合わせた結果を前提とする。

・町場開発

 両成果において最も開発が遅れるのは北之町である。絵図では願泉寺、西之町近辺から北東方向、上方口方向に徐々に町場が拡大する状況が描かれている。発掘調査では北之町の資料は最も少なく、具体的な変遷は把握できていないが、標高三メートル付近より北東方向に拡大することは明らかであり、この点では絵図と一致する。ただし、開発の速度は異なっている

 絵図では元禄段階にG地点まで町場化が進み、その後、ほとんど拡大しない。砂堆部の発掘調査では紀州街道近接地を除き、願泉寺北東側の筋(堀之町筋)以東は一八世紀段階に一定の開発を受けるものの、以後町場として利用された痕跡は非常に薄く、一九世紀代に町場化する。浜方向につても同じことが言える。ここに一○○年程度のタイムラグが存在するのである。段丘上の願泉寺東側ではこの状況が逆転する。絵図では元禄以降徐々に北東へ町場化するが、発掘調査では一八世紀後半までには絵図の松林付近まで一気に開発が進み、その後は町場として安走した利用が確認できる。

 南之町は両成果とも類似し、南西側、北西側へと、早い段階から町場として安定している。

 開発速度の差、一致する部分の存在は両成果の検討だけでは結論は出せない。しかし、これらの絵図が寺内の開発状況を明らかにするためだけに作成されたものではないと考えられるので、先の書き写し、表現省略の間題を含めると、発掘調査成果による発展状況が現状では最も妥当と考える。絵図における町場としての着色は具体的な開発の状況ではなく、単なる町域の認識を示している可能性が高いと言えよう。

・濠

 絵図における濠の表現は、感田神社周辺、即ち寺内南東部は常に明確に描かれており、明治四年段階まで残っている。北境川に接する部分では、慶安段階で不明確になっており、その後では水路状に描かれる。ト半墓所から西にのびる部分では、慶安段階では上善寺までは明確であるが、それから先は不明瞭となり、清水川に接する部分は北境川部分と同様に非常に不明確である。

 考古学成果においても河川周辺では明確な濠遺構は確認できず、沼地等の状況を確認している。今回の比較から、発掘調査によって導き出した濠は寺内南東部分の北境川と清水川を繋ぐ部分にのみ掘削されたという結論は訂正の必要ないと言えよう。

・土塁

 土塁については、考古学成果で先述のとおり一八世紀の開発ラッシュ時に大部分が破壊されたとした。今回図示しなかったが、明治二年(一八六九)絵図ではL、M部分に「土居」と記載されている。どの様な状況にあったかは絵図表現からは判然としないが、部分的であれ当時の人々が土居と認識できる程の構造物が存在したことは明らかであろう。明治四年でも「荒地」と表記され、N地点では「土居」と記載されているので、構造物は明治時代の初めまで存在したと言える。

 時代が下るにつれて、町場化によって破壊が進むことは訂正の必要はないが、近代に至っても土塁が一部存在したことを考古学成果に組み込む必要がある。

 ただし、土塁が濠の両側に構築されていることが問題となる。慶安では濠外側に松林、内側に竹林の表現があり、これらは人為的なものであることは明らかである。元禄、慶応でのこれらの規模の記載も「土居幅廿一間中筋幅三間堀有」とあり、濠両側に「土居」が存在するとの表現である。

 先にも述べたが、発掘調査では土塁の痕跡も確認できない状況であるので、ここでは検討できないが、寺内構造を考える上で不可欠な要素であり、今後の課題としたい。

おわりに

 発掘調査によって導き出した本寺内の変遷は、絵図との対比では修正の必要性は少ない。逆に絵図表現について幾つかの問題点が指摘できたと考える。しかし、絵図については、本来対をなす文書を含めての史料批判・比較ではないので、今回指摘した絵図の問題点は、当時の人々が意図的に表現したものである可能性も高い。この点は両者の検討だけでは解明できない。

 先に表した考察においても、寺内の解明には学際的な分析が不可欠であると述べた。本検討においても問題点の指摘に止まるものであり、それを証明した結果となった。自明の理であるが、文献史学、歴史地理学、都市史、流通・工業・産業史、宗教史、考古学等各分野からのアプローチ、比較検討があって初めて綿密な分析が可能となる。考古学成果が学際的分析のたたき台になることを希望し筆を置く。

[付記]
 本稿内容の大部分は先に公表した考古学成果である。本文で検討した絵図以外の分野との比較検討はその中において記述し、今回その部分を割愛した。このことは本書の編集者にとっては不満であると考える。本寺内の発掘調査は序章段階であり、比較検討のための史料も限られる。平成十年以降の発掘調査でもそれまでの成果に変更を加える資料は確認できず敢えて割愛した。今後の史料調査の進展を待って、再度分析を行うことを明言し、今回はご理解願いたい。

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