貝塚寺内の基礎的検討−「慶安元年」銘絵図−


     貝塚寺内の基礎的検討−「慶安元年」銘絵図−  

『続文化財学論集』 2003 掲載の改訂1
2005/4/23。順次改訂します。

I はじめに

 筆者は以前、貝塚寺内(大阪府貝塚市)について考古学成果をまとめた1)。その中で、一部史料との対比をし史料批判を行った。その後、貝塚寺内の中心寺院、願泉寺に残る近世絵図と先の考古学資料との比較を行い、絵図と考古学成果について論じた2)。

 しかし、史料が持つ膨大な情報を十分に生かし切れたとは言えず、再度検討を行う必要を痛感した。今回は貝塚寺内で最も著名である「慶安元年」(1648)3)紀年銘を持つ寺内絵図について検討し、研究の基礎とすることを目的とする。

II 前提

 1、貝塚寺内と絵図

 本寺内は中世末に成立し、中心寺院願泉寺住職卜半氏が地頭となり、近世を通じて栄えた寺内として希有な存在である。本願寺が一時ここに置かれたことから本願寺東西兼帯となっていたこと、江戸幕府からは直参扱いがなされていたこと等、特異な歴史を持っている4)。

 今回取り上げる「慶安絵図」は本寺内最古の紀年銘を持つもので、また、最も詳細に描かれたものである。絵図には紀州街道部分の枡型、長方形街区、周囲を巡る濠、土塁等が表現されていることから、寺内町研究では頻繁に引用される5)。

 本寺内は周知の埋蔵文化財包蔵地では「貝塚寺内町遺跡」とし、本絵図をもとに遺跡範囲を登録している。南東部の一部を除いて、絵図にある濠、土塁等外周構造部から内部を遺跡範囲しているため、小稿では街区部分を取り扱う。

 2、絵図の概要(写真1)

 絵図は軸装され、絵図部分は101×136.5pを測る。寺内を正位置にするため、山側を上に浜を下に表現し、現在の地図の描き方からすると北が約130°程度傾く。和紙3枚を繋いで描き、寺内等主要部分は2枚によって、その上に1枚を繋ぎ、池2ヶ所、水路と道を描く。この部分は和紙の色合いが他の2枚と異なり、後継ぎの可能性があるものの、表現方法、墨の具合には違和感はない。右側に「慶安元年 つちのえ子 九月吉日」との墨書がある。この墨書につては、絵図内の筆跡、墨具合には違和感はなく、絵図作成時と見られる。  

III 絵図の検討

 1.表現

 寺内絵図とされるが非常に広範囲が描かれている。北は津田村、東は堀村、嶋村、南は南貝塚村、脇浜村が表現され、方形に囲んだ中に村名を書く。道は2本による線引きでその間は朱色によって塗る。池、河川、段丘崖が非常に詳しく表現され、現在の地形とも合致する。河川は、現在の清水川にあたる寺内南側のものに「南川」と書き込み、それ以外の表記はない。寺内外部に散在した仏田については、全てについて「仏田」「田」「かんでん仏田」等と書き、一部「黒土畑」等地字を書くものもある。全て薄い褐色によって着色する。寺内東、南側、現在の北境川と清水川に挟まれた部分では、岸和田藩領について「他所」と書き、寺領との区別を強調している。その他、2ヶ所の墓所、「番所」の張り紙がある。

 文字の書き込みも多く、寺内北側の紀州街道部分は「北之橋」、その外側に「北之橋より津田村迄八十間」、南側は「南之橋 紀州道」、その外側に「南之橋より大谷の橋迄二町余」とある。東側の出入り口は「近木町口」、「中町口」、「堀町口」と表記される。堀町口の外側に「是より堀村迄弐百五十四間」、南貝塚村の右側には「近木町口より南貝塚村迄一町半」と記入されている6)。

 このように寺内外部については非常に精緻に、かつ周辺村々との距離が克明に描かれることが特徴である。

 周辺の記載に比べ寺内内部の表現は対称的である。文字による記載は全くなく、2本線によって街路を描き、街路によって区画された町割り内部に家屋を表現する。基本的に街路に面した部分のみ家屋を描き、その内側は空白となっている。周囲は北部から南部の「黒土畑」にかけて壕を表現するが、紀州街道までは明確なものではない。紀州街道から海岸線までは氾濫原的な表現となる。濠の外側は松林、内側は竹林(一部松の書き込みあり)を描き、土塁を表現していると見られる。

 2、寺内内部の検討

 以下、寺社と町屋に分けてその表現を見てみよう。

・寺社

 寛文10年(1670)の記録7)では神社1ヶ所、寺院14ヶ所を数える。神社では感田瓦大明神、寺院では願泉寺、尊光寺、真行寺、泉光寺、満泉寺、正福寺、要眼寺8)、上善寺、妙泉寺、千手院、光善寺、伴松寺、厭求道心庵、感田瓦大明神神宮寺の宗福寺である。感田瓦大明神は現在の感田神社であり、願泉寺から妙泉寺は現存し所在が明らかである。以下は早い段階で廃寺となり、所在は明らかでない。宗福寺は明治初期に廃寺となっているが、感田神社境内に所在した。

 中心の部分に広い寺域を占めるのは願泉寺である。寺内地頭である卜半家が住職を勤める寺院であり、寺院部分と政治を司る役所部分からなる。役所部分は明治初期に解体され、現在市立小学校用地となり絵図との比較は困難である。寺院部分では、本堂、表門、鐘楼等の位置関係は真宗寺院の典型的な配置を表現されている。よって境内部は比較的忠実に表現されていると推定できる。東端には濠に囲まれて感田神社が描かれている。朱によって着色された本殿とその前に建物一棟が表現さるだけであり、非常にデフォルメされている。願泉寺門前には真行寺、泉光寺、満泉寺、正福寺があるが、寺院的な表現は薄い。尊光寺は入母屋で濡れ縁を表現したととれる建物が一棟あり、寺院を意識している可能性もある。要眼寺、妙泉寺も尊光寺と類似した表現の建物が描かれており意識はある。上善寺は町屋とは区分するような表現になっているが濡れ縁の表現はなく判断が難しい。

 願泉寺に関しては非常に精緻に描かれるが、その他のものは簡略化、省略されるという傾向が読みとれる。各寺院の寺伝によると、慶安元年段階では尊光寺、泉光寺、満泉寺、正福寺、要眼寺、上善寺、妙泉寺が寺内に存在していることとなっている9)。尊光寺、要眼寺、妙泉寺、上善寺に関しては、境内の詳細な配置等は描写ではないが、明らかに寺院を意識した表現となっている。神田神社では濠で囲まれ、所在については明確になるが、建物2棟と明らかに神社の表現としては弱い。

 寺伝が正史である確証はないものの、慶安段階では願泉寺卜半家の寺内支配は確定しており10)、要眼寺を除き寺僧寺院が明確に描かれていない点、作者若しくは製作依頼者(願泉寺?)の何らかの意図が窺える。

 この観点から上記の傾向を見ると面白い解釈が可能である。主体である願泉寺は明確に描かれ、その存在を強く主張する。産土神である感田神社は、表現は簡略化するもののその存在自体は明確にされている。寺僧の門前4ヶ寺は、願泉寺の配下であり、この絵図にとっては取り立てて必要ないため省略される。ただ、要眼寺に関しては表現されており、前面部分に4ヶ寺を描くと願泉寺への注目が薄れる等、位置関係から省略された可能性がある。尊光寺は真宗であるものの麻生郷の旦那寺であること、その他については願泉寺配下ではない他宗派寺院であり、存在を示す配慮を行っている。

 これは仮定であり、証明するための史料は現状持ち合わせない。しかし、寺僧寺院に配慮しつつ願泉寺を強く表現する様は、非常に意図的なものであると言えよう。

・町屋(図1)

 絵図に書かれた街区に番号を付与してその中に描かれた家屋数を集計したものが表1である。集計のため街区側面に名称を付与し、方形街区を基本に左側面をAとして時計回りにB、C、Dとし、各面に描かれた家屋数を集計した。なお、浜部分は全体で1区画とした。区画についてはその形状によって長方形、正方形に区分し、街道に接した面にのみに描かれているもの、街路によって四方を区画されていないもの等は不定形とした。また、長方形は軸装に対しての方向によって長方形タテ、長方形ヨコに、長軸方向が短いものを長方形短とし、方向性でタテ、ヨコに区分した。区画総数66、描写家屋総数772を数える。

 これらの内不定形のものに関しては位置による差が大きく、今回は街路によって区画された長方形、正方形区画について検討する。区画総数41、描写家屋500を数える。

 街区分類では、正方形12、長方形ヨコ13、長方形タテ3、長方形短ヨコ3、長方形短タテ3を数える。区画内家屋数は7〜19、平均では12.2である。家屋数の大きな差は方形の区画を持ちながらも、四方に家屋が描かれていないものを含むためでる。

 正方形から見てみよう。A、Cは2〜5、B、Dは1〜5を数え、左右面の戸数が多い。しかし、平均数では2.4から3.1を示し、ほぼ3を基準としている。最多となる長方形ヨコではA、Cが1〜3、B、Dが2〜7を数え、平均ではA、Cが2、1.3、B、Dが5.3、5.1となる。長方形タテではA、Cが6〜8、B、Dが1〜4を数え、平均ではA、Cが6.6、6.3、B、Dが1.3、2.3となる。このように長方形では長軸両側面は5.1〜6.6、短軸両側面は1.3〜2.3となり、非常に規格性を持って描かれている。長方形短ヨコではA、Cが1〜4、B、Dが2〜5を数え、平均ではA、Cが2.1、B、Dが3.5となる。長方形短タテではA、Cが3、4、B、Dが1、2を数え、平均ではA、Cが3.6、3.3、B、Dが1.6、0.6である。長方形と同様、規格性が読みとれる。

 街路に面した部分での家屋表現、その内側を空白にすることや総数772と数字を集計した段階で、すでに当時の様子を忠実に再現したものでないことは明白であろう11)。さらに上記のように表現方法に一定の規格性を持つということは、非常に意図的である。これだけ定性的に描かれるということは規格性というより、機械的に街区内部を家屋表現によって充填した結果であると言えよう。

・蔵

 家屋表現の他に蔵とされるものがある。街路に面した建物の後方に、2階建て風に高く表現されたものである。これらは棟部が前面建物の棟部より高く描かれ、側面には窓の表現を持つものもあり、蔵との認識で描かれていることは確実であろう。

 これらが描かれている区画は9、10、16、17、22、23、36、37、47、52である。全て紀州街道に面した区画である。33にも蔵ともとれる表現はあるが、他の表現よりは棟高が低く軒部が露出していないため今回は除外した。各区画の棟数を見ると、9が2、10が1、16が1、17が3、22が1、23が1、36が1、37が2、47が1、52が2、56が1となる。17はBに2、Dに1、47ではB、D面に1づつと、最大で1面に2棟まで、B、D面にのみ表現されている。また、9Dに2、10Bに1、16Dに1、17Bに2、22D、23Bに1、36D、37Bに1、52Dに2、56Bに1と、街路を挟んで1:2若しくは1:1の関係が成り立っている。さらに、9、10では2:1、16、17では1:2となり、1:1の区画を2つ挟んで、52、56では2:1と、1:1と1:2の比率を持つ区画が交互に表現されている。

 昭和59年当時の蔵の分布状況が紀州街道両側に集中することが本絵図と共通することから、大店がこの地域に集中しているとの理解がある12)。17世紀段階らこの地域に大店が集中していたことは別の観点からの証明が必要であるが、比較史料の少ない現状では可能性が高い13)。しかし、棟数が限られる、一定の比率を持ち配される等特異な傾向は、家屋表現以上に機械的であり、作者の意図を色濃く反映したものと言えよう。

IV おわりに

 以上、寺内表現を3視点から検討し、その表現は非常に意図的であることを指摘した。したがって、街区内の表現を無批判に引用することは大きな危険性を持つと言えよう。

 しかし、この指摘によって絵図の資料的価値が低下する訳ではない。寺内内部の表現が非常に意図的であることが明確になり、寺内内部以外を示す目的のために作成されたことが明確になったと言えよう。寺内外部を詳細に描く点、「仏田」、「他所」と明確に表している点等々から言えるであろう。




1)拙稿1998「貝塚寺内町遺跡の分析」『貝恷專熬ャ遺跡発掘調査概要』貝恷s埋蔵文化財調査報告第43集
2)拙稿1999「貝塚寺内町遺跡」『寺内町研究』第4号 貝塚寺内町歴史研究会
3)願泉寺蔵。掲載にあたり願泉寺住職卜半了顕氏よりご快諾を頂いた。記して感謝する。
4)本寺内については、様々な研究があり小稿では割愛する。近年、寺内成立の根本資料本とされてきた「貝塚寺内基立書」が史料批判され、正史ではないことが明らかとなっている。非常に精緻な分析がなされ、これまで言われてきた歴史を理解するためにも有用な論文であるので、詳細はこちらを参照されたい。
 近藤孝敏1995「貝塚寺内町の成立過程について−「貝塚寺内基立書」の史料批判を通じて−」『寺内町研究』創刊号 貝塚寺内町歴史研究会
5)一例として下記を挙げる。
 前川要1991『都市考古学の研究−中世から近世への展開−』柏書房
6)文字の翻刻にあたっては上畑治司氏の協力を得た。また、小稿執筆過程においても様々なご教示を得た。記して感謝する。
7)願泉寺蔵。整理番号A-0265。「泉州和泉郡貝塚卜半寺内寺数之覚(拾四ヶ寺)」寛文10.9.17。
8)真行寺、泉光寺、満泉寺、正福寺、要眼寺の五ヶ寺は願泉寺配下の寺院(寺僧寺院)である。願泉寺は直接檀家を持たず、これらの寺院が仏事を行っていた。
9)尊光寺(1588)、泉光寺(1624)、満泉寺(1587)、正福寺(1593、1630)、要眼寺(1615)、上善寺(1613)、妙泉寺(1598)。
10)慶長15年(1610)、2代卜半了閑と住民との間で寺内支配について争論が起きている。この争論に勝った後、卜半家支配が確立する。前掲4)文献他。
11)寛文2年(1662)には戸数1,200余、延宝9年(1681)には1,300余と記録されており、数値が大きく食い違う。ただし、これらの数値がどのような方法によって算出されたのか検証が必要である。
 願泉寺蔵。整理番号A-1029-1、A-1029-2。「願泉寺再興造立奉加帳」寛文2.7.19〜。
 矢内一磨1995「願泉寺再興造立奉加関係文書について−寛文三年の本堂再興に関する奉加帳  データベースによる紹介−」『寺内町研究』創刊号 貝塚寺内町歴史研究会
 並河家蔵、「不許他見 覚書 正英」延宝9年。
 貝塚市役所1958『貝塚市史』 第三巻 資料編
12)青山賢信1986『貝塚寺内町−町並調査報告書−』貝塚市教育委員会
13)数枚の絵図と発掘調査成果とを検討し、絵図における街路や町の開発状況等の描写は、当時の状況を比較的忠実に表している可能性を論じた。したがって、紀州街道周辺に蔵が集中することをもって大店の存在を示しているという理解は現在最も的を射た指摘と言える。
 前掲2)文献

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