貝塚寺内の基礎的検討2−願泉寺境内における発掘調査成果−


     貝塚寺内の基礎的検討2−願泉寺境内における発掘調査成果−  

『寺内町研究』第8号 2004 貝塚寺内町歴史研究会 掲載の改訂1
2005/4/25。順次改訂します。

はじめに

 大阪府貝塚市中、北、南、西、近木に所在する貝塚寺内は文化財保護法による周知の埋蔵文化財包蔵地「貝塚寺内町遺跡」として登録されている。古くより遺跡として登録されているものの、発掘調査が本格化したのは平成五年からである。町場部分については現在百ヶ所を数える発掘調査が実施されており、その成果にもとづいて、筆者はいくつかの分析を行った1)。しかし、寺内中心寺院願泉寺についてはこれまで数度の調査にとどまっており、十分な検討がなされていない2)。

 小稿では、現在の願泉寺境内における発掘調査について、その成果を検討し、願泉寺境内の状況を考古学的に考察する。(図一)

 なお、貝塚寺内、願泉寺の歴史、研究史等は紙幅の関係で今回は割愛する。

一.発掘調査の検討

 願泉寺境内では、これまで四度の発掘調査が実施されている。会館、庫裡建設など小規模な工事に先立つ調査であるため、発掘調査は小規模なものであり、面的に遺構を把握できない状況にある。

 一ヶ所をのぞいて概要報告書にて調査成果を公表しているが、その段階では、紙幅の関係で十分な検討は加えられていないため、以下では資料の提示を含め詳細な検討を加える。(図二)

(一)第一地点3)(図三)

 本調査は昭和五十八年に実施した願泉寺会館建設に先立つものである。本堂南側、「卜半旧館全図」(年不詳)では「集会所」、「吟関国絵図」嘉永七年(一八五四)では「顕如堂」と記された部分にあたる4)。建設予定地に「T」の字形の調査区を設定して実施された。

 記録保管が十分でなく、現在、解体前の集会所平面測量図と遺構配置図が残るのみであり、層序(土層堆積状況)についての詳細は不明である。遺物台帳の記載からすると、地山面5)までは現代盛土のみであることが想定できる。写真記録によると、約〇・二〜〇・三メートルにて地山に到達している。現地表面高約八・三メートルから換算すると、地山高は約八メートルを測る。

 遺構は調査区北部を中心に検出している。東西方向の溝二条、溝に河原石を配置した遺構である。溝一は検出面では平坦な石を連続して配し、庭の通路的な形状を呈す。西端にて検出した溝は西から南に屈曲し、溝センターライン上には、十五〜二十センチメートルの河原石を配置している。調査区土層断面図がなく、深さ、埋土等詳細なデータは不明である。これらの遺構を検出した南側部分は、砂を埋土とした落ち込みを検出している。北東〜南西方向にのびるものとみられる。北側法面のみの検出であり、全体の規模は確認できないが、南側調査区端まで続き、検出幅は約三メートルを測る大型の遺構である。

 遺物台帳の記載では、遺構内からの遺物の出土はなく、盛土から幕末以降の陶磁器、瓦が出土している。よって遺構の時期は確定できないが、集会場建設以前との推定ができる。

 調査区は先述の「集会所」の直下にあたるものの、この建物にかかわる遺構は検出できず、石の配置等からすると庭園の一部とみられる状況である。この部分は、絵図では庭園としての利用は確認できない。よって、この調査成果は絵図以前に庭園として利用されていたことを示す可能性がある。今後古文書等の調査とあわせての検討が必要である。南側の落ち込みは、特定の遺構とするには規模が大きく、整地層と考えられる。この点については後述する。

(二)第二地点6)(図四)

 本調査は昭和五十九年に、境内南角にて実施したものである。鐘楼南西側において、一・五×七メートル(第一区)、一×一・七メートル(第二区)、〇・五×一メートル(第三区)の三ヶ所の調査区を設定して調査が実施された。こちらも、記録保存が不十分であり、概要報告掲載の第一区以外の状況は不明である。鐘楼近くに設置した二ヶ所の調査区は、写真記録によると、約〇・四メートル前後の現代盛土を除去した段階で地山に到達したようであり、明確な遺構等は認められない。遺構を検出したのは、第一区である。

 第一区は北西〜南東方向に設定した調査区である。調査区内での層序は、現代盛土を除去すると、茶黄色土、茶黄色混礫土、黒灰色土、黄灰色砂質土が土坑状に堆積している。後述する石列北側が大きく破壊を受けていることが、これらの堆積状況と整合し、断面で確認した土坑状の堆積は上面より掘削された遺構とみられる。よって、調査区内では、現代盛土直下と地山上、二面の遺構面が認定できる。ただ、現代盛土直下では遺構確認作業を実施していないため確証はない。すべて地山上面から掘削されたとした方が理解しやすい。地山は淡灰色土と報告されている。

 作成された断面図、平面図には高さの記載はあるものの、仮基準高からの計測であり、標高値は記載されていない。現地表面高から換算すると、残存地山高は海抜約八メートルを測る。

 遺構は地山面において石列を検出している。方向は西に三十三度振る軸線をもち、検出面からは地山を約〇・三メートル掘りくぼめ、東側に大型の石を配置し、西側に細かい石を入れる。東側、石の面が一直線にのびているため、東側を法面とした石垣の基底部であると想定されている。石は切石ではなく河原石であり、一部火を受けた痕跡が報告されている。

 遺物は大部分が現代盛土内からの出土であり、石列に伴う遺物は出土せず、十八世紀と十九世紀の陶磁器、瓦が多数出土したことが報告されている。

 さて、この石列は、現状地盤から深い部分で検出したこと、現在の町割と方向があわないこと、被火痕跡をもつこと、慶安元年銘絵図7)に記載がないことから、江戸時代初期あるいはそれ以前の天正五年(一五七七)に焼失8)した施設にかかわる遺構と推定されていた。しかし、一九九八の拙稿9)において再検討した結果では、先述の結論は受け入れられないことが判明した。ここでは詳細に検討する。

 まず、遺構から検討する。石列の南端が調査区内で終息し、その南側に続かない。終息部分での屈曲等の状況は確認できず、基壇等の建物にかかわる施設ではない。地山を掘りこんだ部分が溝状を呈し東側にも続き、その幅が最大幅の石(約〇・四メートル)よりも二倍以上の規模をもつことが調査図面より読みとれる。調査区西側では、現地表下約〇・三メートルにて地山を検出しており、この面が掘りこみ面とした場合、最南端にある石の規模(直径約〇・四メートル)では二段しか復元できない。地山高であるが、これを石垣とみた場合、東側が検出面よりも低くなるはずである。調査区東面断面図は作成されておらず、調査区での状況は確認できないが、東側の調査区では、第一区と同じ高さにおいて地山を確認している。第一地点や後述する本堂南部での調査では、地山が低くなる状況は確認できず、逆に西側面と同じ高さ付近に地山面の存在が考えられ、この周辺の地山面はフラットな状況を呈する。よって、石垣とする根拠は非常に薄く、地山の状況、掘りこみ部分の状況、石の状態からして、石組み構造によって護岸された溝の一側面とみた方が妥当であろう。

 遺物は概要報告書に記載された遺物がすべて表層の盛土出土である。台帳には石列に伴う遺物は記載されていないが、石列の詳細平面図をみると、北側の細かい石の部分に「瓦」、「土器」の記載があり、図面上では石列に伴う遺物が確認できる。しかし、この平面図に記載された遺物が保管遺物のどれであるかは特定できない。概要報告書記載遺物、その他の保管遺物をすべて確認したが、調査者が推定しているような時期の遺物はまったく認められず、この遺構を十六世紀後半から十七世紀前半の時期のものとする根拠は存在しない。時期の確定はできないものの、少なくとも報告者が推定する時期をこの遺構に与えることはできないと言えよう。

(三)第三地点10)(図五)

 本調査は平成九年、庫裡改築工事に伴い実施したものである。境内での位置は北端にあたる。調査は建設計画にもとづき、建設予定地内南東部に、北東〜南西方向(二×三・五メートル)、北西〜南東方向(一・八×五メートル)の調査区二ヶ所を設定し、前者を第一区、後者を第二区として実施した。

 調査区の層序は十四層に分別できる。各層の層厚が薄く、出土遺物もほとんどないため確定できないが、第一区では一〜十一層が、第二区では一〜七層が整地層、遺構とみられる。その下に、自然堆積に類似する土層が堆積する。第一区では十二〜十四層がそれにあたり、汚れのほとんどない細砂、シルトである。第二区では八〜十四層がそれにあたり、十三層までが細砂、シルトであり、十四層が粘土である。第二区十三層から土師器微細片が一点出土したものの、他の層から遺物は出土していない。地山は第一区がオリーブ褐色礫混粘土、第二区が黄色粘土であり、地山高は両区とも約八メートルを測り比高はない。現地表面高は八・八メートルを測る。

 第一区十二〜十四層、第二区八〜十四層の性格であるが、土層の締まりの弱さ、汚れの少なさ、砂、シルトを主体とすることからみると、これらの層を自然堆積層、例えば洪水層とすることが自然である。しかし、各層は水平堆積し、その堆積厚が薄いこと、同一段丘上の周辺町場部の調査では、これらの砂層は確認できないことからして、自然堆積層とはできず、人工の整地層という判断ができる。これらの層からはほとんど遺物が出土せず、整地された時期は確定できない。上層の遺構、整地層は出土遺物から、幕末頃の時期が推定できる。

 遺構として平面的にとらえたものは少ない。第一区において四層までを掘削した状況にて、建物礎石三個を検出した。和泉砂岩河原石をならべたものであり、石の直径約○・二五メートルを測る。石の間隔、方向から、同一建物の礎石ではないとみられる。第二区では平面で確認できなかったが、断面図五層が土坑とみられる。

 これらの成果から、新築庫裡基礎掘削工事についても立会調査を実施した。建設工事の掘削深度は○・二〜○・四メートルである。断面観察の結果、この部分にも幕末以降の整地層を確認した。約〇・二メートルの現代盛土を除去すると、淡灰黄色土(地山ブロック含む)、黒灰色土が堆積する。後者の上面において元位置を保たないとみられる礎石を確認し、土師器が散乱している状況を確認した。堆積状況、遺物出土状況からすると、この面が生活面を構成していたことは明らかである。それ以下の状況は建物基礎掘削が及ばないため不明であるが、建設地南半では淡灰黄色土を除去した段階で第一区と同様の砂堆積を確認し、北半部分に向かって黒灰色土の下へ続く状況を確認した。遺物は現代盛土を含め、瓦を中心として陶磁器、土師器が出土した。瓦は布目圧痕をもつ中世のものが出土し、境内出土の最古瓦である。

 庫裡の建設地点は「吟関国絵図」11)では、庫裡北西側のにあった「卜半役所」の内部にあたる。しかし、今回確認した礎石はこれらの絵図とは対応しない。よって、絵図に描かれた建物とは判断しがたいが、絵図以前の建物や付属施設の可能性が想定できる。

 さて、発掘調査によって建物礎石が確認できる場所は庫裡周辺のみである。それも、現地表下約〇・四メートルと非常に浅い位置で確認でき、さかのぼっても江戸時代後半の時期が与えられるなど、境内での伽藍以外の建物建設時期の上限となるものである。しかし、寺内を支配した願泉寺の歴史からして、卜半役所、庫裡などの建物が江戸時代後半であることは受け入れがたく、今後検討しなければならない点である。

(四)第四地点12)(図六、七)

 本調査は平成十一年度国庫補助事業として実施された消火用放水銃設置工事に伴うものである。調査対象となったのは地下埋設管工事部分である。調査範囲は、掘削幅○・三〜○・五メートル、総延長約二七〇メートル、掘削深○・六〜○・八メートルを測る。

 埋設管の掘削は北側部分から開始し、離れ棟東側〜書院(A地区)、書院西側(D地区)、庫裡北・東側(B地区)、本堂北東側(C地区)、本堂西〜南側、墓地(E地区)の順に行った。埋設管設置の細長い掘削に伴って調査を実施したため、面的に遺構等を把握できたところはなく、埋設管掘削深度よりも深く掘削することが不可能であったため、地山を検出したところも少ない。しかし、境内での堆積状況を確認するための貴重な調査となった。

 現状の地表面を形成する黒色土(一部現代マサ土)を除去すると、幕末から明治期と推定できる地表面が現れ、礎石等の遺構はこの面にある。堆積の状況は第三地点と共通する部分が多い。上層は幕末以降の整地層、その下に砂、シルトの整地層が存在する。

 以下、地点毎に、下層の整地層を中心にその状況を示す。

・A地区(離れ棟から書院)

 本地区は段丘端部にあたり、書院との中間地点に比高約〇・四メートルを測る庭造成の段差があり、段差を境にして堆積状況が異なる。段差の下にあたる離れ棟周辺は、現地表面は約七・八メートルを測る。近世後半以降の瓦を大量に含む造成が最低四回行われている。これらは西側の段丘端部に向かって行われており、旧地形は大幅に改変されていることが判明した。地山は段差部分近くの現地表下約○・五メートルにて検出したが、山状に高まった一部を検出したのみであり、北西側、南東側に低くなっていく。検出できた地山高は七・二〜七・四メートルを測る。

 段差をあがった地点から東に向かっては、水平堆積する土層を三層確認した。最下層はシルトであり、さらに東に向かうと、上層をのぞいて粗砂層となり、地山は部分的にしか確認できないが、地山上まで続くものとみられる。この状況は第三地点と類似した状況であり、かさ上げのための整地層とみられる。整地層の時期は、これらから遺物がまったく出土せず、明確にはできない。現地表面高八・三メートル、地山高は七・六メートルを測る。

・B地区(庫裡北・東側)

 北側はA地区から庫裡にかけて三、四層の整地層が存在する。水平堆積すること、砂、礫、シルト層が土の層と互層をなしている状況から整地層と判断できる。明確な遺構は明治期の地表面から掘りこまれた丹波焼の埋甕のみであり、そのほかの層上面から掘削された遺構はない。遺物は整地最上層の砂層から、胎土目をもつ唐津系陶器皿が出土するのみであり、時期の判断は困難である。現地表面高八・三〜八・九五メートルを測る。地山は本区北端部分で検出し、高さ約七・六メートルを測る。庫裡周辺は、市立北小学校との敷地境にブロック塀があり、その基礎工事によって破壊を受けており整地層の存在は確認できない。ただし、破壊をまぬがれたところが一ヶ所あり、そこでは地山高七・一五メートルを測る。

・C地区(本堂北東側)

 本地区は後世の破壊が少なく、堆積状況がもっとも把握しやすい。現地表下約○・六メートルにて黄色粘土の地山を確認し、標高八〜八・二メートルに地山が存在することを面的に確認できた。その上面には一層、粗砂の整地層が存在する。遺構はなく、整地層からの遺物出土もなく時期は不明である。現地表面高は八・三〜八・七メートルを測る。

・D地区(書院西側)

 A地区から続く粗砂の整地層が存在するが、書院北側部分東半で途切れる。最下層において黒色粘土を確認した。この黒色粘土を切り込む形で砂層の落ち込み状の堆積を確認した。この砂層と第二地点の落ち込みの規模は類似しており、整地層と判断できる。この砂層からは内面に離れ砂痕をもつ丸瓦が出土したが、鉄線引きのものであり、近世以降のものである。その他の層からの遺物の出土はない。書院北側西半ではこの黒色粘土、砂層はなくなる。現地表下約○・五メートルにて地山(黄色粘土)を検出し、その上には一、二層の整地層が存在する。現地表面高は約八・五メートル、地山高は七・七〜八メートルを測る。

・E地区(本堂西〜南側、墓地)

 本地区は今回の範囲ではもっとも状況の悪いところである。この墓地は近世段階には存在せず、明治以降作られたものである。大幅な盛土によって造成されており、埋設管掘削の深さでは地山も確認できない。本堂西側にもこの状況が続く。南側も願泉寺会館建設の附帯工事によって大幅な破壊を受けている。現地表面高は場所による差が大きく、約八・三〜八・八メートル、地山高は七・九〜八・二メートルを測る。 ただ、本堂をすぎたE地区南端(願泉寺会館と経蔵の間)では、現地表下約○・三メートルにて礫層の地山を、その上面には一層の整地層を確認した。また、地山上面から掘削した土坑を一ヶ所検出した。土坑からの遺物の出土はなく時期は不明であるが、第一地点の堆積状況と対比すると、土坑、整地層共に幕末から明治期のものとみられる。現地表面高約八・三メートル、地山高七・八〜八メートルを測る。

・消火栓引き込み部分

 C、E地区においてそれぞれ一ヶ所づつ本堂内に消火栓の引き込み管工事を行い、本堂基壇の一部を掘削した。C地区では、現地表下約○・六メートルにおいて地山(黄色粘土)を検出し、その上には層厚約○・三メートルを測る黄色シルトを入れ、シルトの上に三〜五pを測る石を多量に含んだ黄色土(層厚〇・三メートル)を積み基壇としている。基壇層は非常に堅く締まっており、人力による掘削は困難を極め、機械力にたよる必要があるほどの硬度をもつ。E地区は現地表下約○・七メートルにおいて地山(黄色粘土)を検出した。その上に層厚約○・一メートルを測る細砂混じりの灰黄褐色土を入れ、その上に層厚約○・四メートルを測る明黄褐色土、層厚約○・一五メートルを測る黄色土を積み基壇としている。両層とも石を多量に含む。こちらでは礎石との関係が把握でき、明黄褐色土を積んだあと、礎石を据えている。地山高はC地区側が八・一八メートル、E地区側が八・一メートルを測る。両区とも二メートルに満たない掘削長であり、出土遺物はない。

二.考察

1 現状地形と旧地形

 境内の現地表面は本堂を頂点として、境内端に向かって低くなる。本堂礎石上面は約八・九メートル、基壇上面は約八・八メートルを測る。庫裡周辺部は本堂と地表高をあわせたようで、八・八メートルを測る。本堂東側、本堂から表門間は八・二メートル、本堂北東側、北小学校運動場間は八・二メートル、書院西側、庭園の分部は二段になり、書院側は八・三メートル、離れ棟部分は七・八メートル、本堂南側、墓地部分は八・三メートルを測る。

 本堂周辺に排水溝がある以外、排水のための施設はほとんど敷設されていない。よって、本堂を中心として、雨水排水を優先した結果、このような現状地表高となったとみられる。

 発掘調査成果からすると、明治初頭頃までの地形は、本堂等建物部分をのぞくと、〇・二から〇・四メートル低い標高に存在する。境内の大部分は現表土を除去すると当時の面が現れる。各部分の利用に応じて順次、薄い盛土を繰り返したことが考えられるが、黒色系の土によって形成されているため、発掘調査でそれぞれを厳密に区分することは困難である。

 地山の状況であるが、表門から書院西にかけて、すなわち北東から南西にかけて、緩やかに低くなっていく。離れ棟の北西側は海岸段丘になっており、自然地形に沿った形になっている。

 本堂東側の表門、太鼓堂部分の数値はないが、境内南端、第二地点は約八メートルを測る。本堂の前面では、第四地点、E区南端が約八メートルを測り、鐘楼から願泉寺会館まではフラットな状況が確認できる。C地区南端が約八・二メートルを測り、高低の変化はあるものの、本堂北東側八〜八・二メートル、庫裡北側八メートルを測る。よって境内では東部分がもっとも高いことが推定できる。本堂西側はE地点が約八メートルを前後する数値を測り、D地区、書院西側では全体的に八メートルと、鐘楼から書院周辺までフラットな状況が続く。書院西側から離れ棟にかけて急激に変化する。七・六から七・八メートルとなり、庭地の段差部分にて七・二から七・四メートル、離れ棟の部分は掘削範囲ではまったく地山は確認できず、地山はさらに低い部分にあると考えられる。確認できた土層の堆積状況から判断するとさらに深い部分に地山が存在すると考えられる。本堂基壇部分は若干高く八・一メートルを測る。

 地山の質であるが、境内は均質な状態ではなく、地点毎に変化をもつ。本堂北東側、C地区は淡黄褐色粘土、第三地点は黄色粘土、礫混のオリーブ褐色土、A地点は一部しか確認できないものの黄色粘土、灰白色粘土、B地区は黄色粘土、D地区は黄色粘土、E地区南端はにぶい黄色粘土、鐘楼付近では淡灰色土となる。願泉寺がある地点は内陸部から続く中位段丘であり、周辺調査においても、地山は黄色粘土を検出しているので、黄色粘土を検出できない地点は本来の地山上面は削られていることが言える。

 鐘楼付近の第一地点は上層から掘りこまれた遺構によって、地山面が削られており、確認した地山は上面が失われた状況が観察できる。近接したE地点についても現代土直下に地山が存在することが観察できる。C地区も検出した地山上面の状況は非常に荒れている。通常利用があった場合、平滑な面となるが、本地点に関しては平滑面をもたず、荒れた状況があり、表面を削られたことが観察できる。地山の質と検出した地山の表面の観察では、境内東側部分はもとの地表面が削られていることが言える。

 では、地山の標高とその状況から旧地形を復元してみる。表門から書院部分にかけては本来八・二メートル前後を測る地山が存在したものとみられる。書院西側部分で〇・四メートル前後低くなったあと、離れ棟部分で急激に下がっているところをみると、現在、離れ棟西側にある段丘面は、旧来はさらに東側、地山が確認できなくなる地点に存在していたとできる。

 地山の状況から判断して、地山に対する以下の工事が推定できる。東側の標高の高い部分を基点とし、本堂の位置を決定した後、標高の高い部分は全体的に若干の掘削を行う。基壇予定北東側を筋状に若干堀くぼめ、基壇基礎部分に八・一メートル前後のフラットな面を作る。標高の高い部分において掘削を行い、基壇部分を旧地形から削り出す大幅な切土工事を行っているのである。

2 境内の造成過程

 先の切土工事ののち、整地を行っているが、ここではその状況について述べる。

 本堂周辺の整地層は遺存状況が比較的よく、整地の状況が観察できるものの、その他は境内端に向かって近代以降の切土、盛土が激しく状況がつかめない。ここでは、本堂周辺の堆積状況をもとにその造成課程を説明する。

 地山を大幅に切土したあと、まず粘土を主体とした層を盛る。第三地点十四層、第四地点D地区黒色粘土がこれにあたる。黒色粘土は比較的広範囲にひろがるものの、第三地点のものは第二区にしか確認できないことからすると、これらの粘土層は境内全面を平均的に覆うものではなく、部分的なものである。大幅な造成前、一定、標高をあわせるために切土で低くなりすぎた部分に充填した状況が読みとれる。

 広範囲に盛土されるのは、砂、シルト層である。本堂周辺では対象地すべてに砂、シルト層が存在する。特にA地区東端部からD地区にかけてあつく盛土されている。土を主体とする層に関しても、粗砂が混ざる状況が確認できる。シルト層は基壇の最下層にも確認でき、境内東端をのぞいて、本堂の周辺部は砂、シルト層で一気にかさ上げを行った状況が読みとれる。

 基壇部はその上に一層、ないし二層を積み形成している。ここで特徴的なことは、版築を行っていない点である。本願寺形式の巨大な本堂を上部に乗せるにもかかわらず、版築を行わず五センチメートル大の石を混ぜ基壇を作っている。ただ、人力では掘削困難なほどの硬度をもっており、構成土の地耐力が高かったため、版築をしなかったものとみられる。

 このように、境内東端をのぞいて、本堂周辺については、砂、シルト、砂混じり土を用いて全面的に盛土し標高をあわせた上で、基壇の造成を行い本堂の建立したと言える。

 先に、離れ棟西側にある現在の段丘面は本来さらに東側、現在の離れ棟東側の段差部分にあったとした。しかし、この地点に関しては明治期以降と推定できる造成が三期以上存在し、現在の堆積状況からは、造成によって段丘面を西側に移動させた状況や時期については言及できない。

 さて、一連の造成に使われた砂、シルトであるが、周辺町屋部分において確認できない土質のものであり、粘土を基盤層とする段丘端部という地形であることからしても、境内周辺から得たものとは考えられない。砂については段丘の西側、寺内西部の砂堆部分から採取したことも想定できるが、造成で使われている粗砂は、砂堆部で確認できる砂よりも摩滅を受けていないものであり、砂堆部からの採取でないことは明らかである。同様に使用されているシルトが砂堆部ではまったく入手できないことからも言えよう。よって、これらの整地土については内陸部の河川、河川堆積の部分から採取、搬入されたものと言える。

3 形成時期

 以上、境内全面は切土、砂、シルトの採取、搬入、盛土など、まとまった土木工事がなされていることを述べた。ではこれらの一連の工事時期をどこに求めるか。

 遺物の出土は非常に限られた地点からのものであり、出土遺物もって整地層の時期を確定することは困難である。砂、シルト層にはほとんど遺物が含まれておらず、遺物からその成立の上限、下限について言及できない。D地区では数点の瓦片が出土しているが、いずれも整地層とした最上層からの出土であり、離れ砂等の古い様相をもつものの、鉄線引きの痕跡が確認できるなど、中世にさかのぼるものではない。

 遺物が出土する層は、砂、シルト層よりも上層であり、特に表土もしくは明治期までの地表面に集中する。第三地点や第四地点A地区では中世にさかのぼる丸瓦が出土するものの、明治期以降に廃棄された状況が確認できる。瓦以外でも、十六世紀にさかのぼる備前焼甕、焙烙、唐津焼系皿等確認できるが、いずれも一点と、後世の混入としかできない状況にある。境内南側部の第一地点、第二地点では、幕末以降の遺物しか確認できない。

 長らくの利用があったにもかかわらず、遺構はもちろんのこと遺物についても、古い時期のものが確認できなという特異な状況にある。

 では、考古学資料以外でその時期を検討する。

 文字記録では、願泉寺は数度の改築を受けていることがわかる。天文十九年(一五五〇)再興本堂。天正五年(一五七七)信長軍の破却ののち、天正八年(一五八〇)再建された本堂。これは板屋道場といわれる。慶長三年(一五九八)建立本堂。寛文三年(一六六三)の現本堂である。天文十九年、天正八年は、その成立年代が疑問視されている「貝恷專煌立書」13)からの年代であり、寛文三年は「万記録」14)という後世の資料からのものである。寛文三年については願泉寺に建立時の奉加帳三冊(寛文二年)15)が現存している。よって、史料的にその行為が補償されるものは現本堂のみである。

 これまで、この変遷によって願泉寺の歴史が語られていた。また、寺域についても、現在の場所からの移動は問題視されておらず、移動しないが前提となっている。

 では、文字記録から得られた歴史が正史であると仮定して、先の検討と比較する。慶長三年から寛文三年の建立をのぞいて、記録では二十年から三十年のスパンをもって建立が繰り返されている。しかし、先にみたとおり、この時期の遺構はまったく確認できない。それぞれの建立に際し、前身建物を解体、転用し、大幅な造成によって前身建物の痕跡を消し去ったとすることも可能であるが、遺物すら出土しない点について説明がつかない。また、井戸等掘削深度の深い遺構も遺存しない状況は、現代土木工法をもって大幅な造成工事を行う以外に説明がつかない。よって、これらの建立の記事にある本堂の建設は現在の境内地内ではなかったことが言えよう。

 地山や整地の状況など発掘調査成果は、現在の願泉寺境内は本堂を中心にして形づくられていることを示しており、寛文二年の奉加帳からして、現在の地が願泉寺境内として完成するのは、現本堂建立時、寛文三年であり、先に示した一連の工事はそれ以前のある時期、比較的短期間のうちに行われたと言える。

まとめ

 以上、少ない調査成果であるが、地山の状況、造成土などを検討した結果、現状境内の造成はすべて寛文三年の現本堂建立に対して行われていること、境内が現在の地に形成されるのも、この時期であることを述べた。面的な調査はないものの、境内地をほぼ全周する埋設管工事に伴う調査は、境内の大まかな土地造成を考える上で貴重な成果であり、先述した本堂建立の普請関連同時代文献が出現したとて、今回の内容が覆るものではないと考える。

 先の拙稿16)では、慶安元年に描かれた貝塚寺内の町場は近世に入ってから形づくられたと結論したが、境内の発掘調査成果を検討した結果もほぼ同様のものとなったと言える。

 これまで貝塚寺内の基本史料とされてきた「貝塚寺内基立書」は、紀年の同時代文献でないことが指摘され17)、そこに説かれた寺内の変遷については再検討が必要であることが明らかとなっている。今回みたように、願泉寺境内の狭い範囲の検討においても、大まかではあるが基立書を越える成果を得て、今後、寺内の都市計画を含め検討する必要性を強調できたと考える。

 現状の考古学成果から寺内の変遷を細かく述べる段階にはなく、いくつかの問題点が残った。今後、願泉寺文書以外から、考古学成果を補完する新たな同時代文献が発見されることを期待して筆を置く18)。



注)
一)拙稿「貝塚寺内町遺跡の分析」(『貝塚寺内町遺跡発掘調査概要』貝塚市埋蔵文化財調査報告第四三集 貝塚市教育委員会 一九九八)
 拙稿「貝塚寺内町遺跡」(『寺内町研究』第四号 貝塚寺内町歴史研究会 一九九九)
 拙稿「貝塚寺内の基礎的検討―「慶安元年」銘絵図―」(『続文化財学論集』文化財学論集刊行会 二〇〇三)。
二)現在の市立北小学校敷地は近世の卜半役所跡地であり、もとの願泉寺境内の一角である。小学校部分においても、二度の調査を実施したのみである。三)未報告。貝塚市教育委員会掲載許可済。
四)貝塚市教育委員会『卜半斎了珍と貝恷專焉\願泉寺初代卜半斎了珍没後四〇〇回御遠忌記念―』(平成十四年度貝恷s郷土資料展示室特別展図録 二〇〇三)。
五)地山(じやま)とは、人の関与がないと推定できる自然堆積層を指す。年代的には数万年以上以前の堆積層を対象としている。堅く締まっており、遺跡の基盤層となる。
六)貝塚市教育委員会『貝塚市遺跡群発掘調査概要Z』貝塚市埋蔵文化財調査報告第九集 一九八五
七)前掲四)。
八)近藤孝敏「貝恷專烽フ成立過程について―「貝恷專煌立書」の史料批判を通じて―」(『寺内町研究』創刊号 貝塚寺内町歴史研究会。
九)前掲拙稿一)。
一〇)貝塚市教育委員会『貝塚市遺跡群発掘調査概要二〇』貝塚市埋蔵文化財調査報告第四六集 一九九八。
一一)前掲四)。
十二)貝塚市教育委員会『貝塚市遺跡群発掘調査概要二二』貝塚市埋蔵文化財調査報告第五四集 二〇〇〇。
十三)前掲近藤論文。
十四) 宝暦三年(一七五一)「万記録(卜半了観記)」(『貝塚市史』第三巻史料 貝塚市役所 一九五八)。
十五)矢内一磨「願泉寺本堂再興造立奉加関係文書について―寛文三年の本堂再興に関する奉加帳のデータベースによる紹介―」(『寺内町研究』創刊号 貝塚寺内町歴史研究会 一九九五)。
十六)前掲拙稿一)。
十七)前掲近藤論文。
十八)寺内最古の紀年絵図である慶安元年(一六四八)絵図では、現地に伽藍が記載されている。よって、小稿で論じた内容は成立しないこととなる。しかし、筆者はこの絵図を分析し、その記載内容が厳密でないことを明らかにした。(一)二〇〇三)したがって、当地において境内としての利用は始まっているものの、伽藍についての表現は無批判に信用できるものではないと考える。

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