貝塚寺内年表


     貝塚寺内年表(貝塚市史第3巻資料1958より抜粋) [貝塚寺内関連資料1]

貝塚寺内を理解する上で必要な年表を掲載しました。寺内としての体裁を整え始めるとされる1545年からとしました。次に[貝塚寺内関連資料2]として昭和16年以前の地図を掲載する予定です。
preタグを使用していますので、テキストが必要な方はソースなり、このコンテンツをそのままコピペしてください。IEの方はちょっと文字が小さくなります。


西暦 年号  月日 内  容 文献 1545 天文14     右京坊を根来寺より迎え真宗道場の住持とする      ? 1550   19 4.22 本願寺証如ら一行、吉野花見後、紀州黒江御坊へ下向した際、「かいつか」            へ巡錫す。また、帰路にも「かいつか」を通る。              近藤(1)        8.10  貝塚草庵を再建(?)し、証如より卜半斎了珍に阿弥陀如来絵像を下付    38P (絹本著色 方便法便尊像 証如真筆の裏書きあり) 1555   24 3.  貝塚道場を中心とする集落、大坂本願寺下の寺内として取建てられる ? 1576 天正 4 7.12  毛利水軍本願寺への兵糧米搬入のため貝塚に上陸、ついで木津川口に進み、            適船と戦い、石山に入る  44P 1577    5 2.16  信長来攻、和泉香の庄に陣す、雑賀・根来衆・和泉門徒等、貝塚・千石堀・            畠中に陣を布く 45P 2.17  織田信忠来攻の報に土民軍四散し、信忠軍貝塚に入る、寺内町焼土とかす 45P ? 1580    8 閏3.27 大坂本願寺開城にあたり、顕如宗門分裂を憂え、諸方門末及び卜半斎に協力            方を要請                                45P 貝塚に板屋道場を再建、祖師御影を安置す                 ? 信長、貝塚を寺内として承認、寺内の自治を以て地子軒別百坪宛免除 ? 1582 10 10.   本願寺より寺領保全のため秀吉に気脈を通ず 46P 1583   11 5. 秀吉、本願寺御坊を貝塚に取立ることにつき、卜半斎に協力を命ず      ? 5. 秀吉、貝塚を寺内として安堵  (禁制の発給)               近藤(7)        7.4 顕如、鷺森から貝塚に入る    47.59P 1584 12 3.9 秀吉、根来征伐のため大坂を出発する風聞あり、秀吉貝塚寺内に禁制を授く 近藤(9)      10.27  秀吉、貝塚寺内に宛てて、根来征伐につき軍勢出入りの停止する直書を与う  近藤(10) 1585 13 3.20 秀吉、根来征伐のため大坂を出発、教如等これを大津にて出迎う、秀吉貝塚            に禁制を下す 51P 3.23 秀吉、卜半斎に仲介方を依頼し、沢城開城、秀吉根来に向かう 51.56P 8.30  本願寺貝塚を去り、大坂天満に移る                    58P 卜半斎了珍、貝塚御坊を返還され、これより領主的権力振るう        ?            (この段階では領主権は確立していない)        11. 貝塚御坊、水間寺の梵鐘を買収して、鐘楼を建てる             ? この年、卜半斎糀独占、特定の商人にのみ認める              68P 1586 14 近木庄神前番代官、卜半斎に年貢不納の借用状を入れる           58P 1587   15 5.19 富田頼雄、「貝塚寺内基立書」を作る                   58P ?            (「貝塚寺内基立書」は後の時代の文書) 感田瓦大明神を寺内町民の氏神として建設                 ? 1593 文禄 2 3.19 本願寺教如より卜半斎了珍に対して顕如上人画像を下付される        60P 1594   3 この年、岸和田城主小出秀政、貝塚寺内の周濠を埋める           ? 1595 4 8.30 岸和田城主小出秀政、泉州知行地加増を受けた際に、貝塚寺内を「海塚やし            きかた」として、その支配を秀吉に公認される。 近藤(13) 1598 慶長 3     板屋道場を改めて本堂を新築、諸入費は小出秀政他、寺内町人、庄屋、肝煎            の奉加による                              ? 日蓮宗妙泉寺、寺内近木之町に建立                    ? 1600 5 9.21 家康、貝塚に朱印の禁制を下す                      63P 卜半斎を引見                              ? 1601 6     卜半斎の斡旋により、家康根来寺僧81坊の帰山を許可す           ? 1602 7 10.16 卜半斎了珍死去、了入と諡す                       ? 1604 9 和泉国検地に貝塚御坊仏供田存続を願い出、小出秀政に了解を得る 67P 1607 12 8.    本願寺准如、願泉寺安置親鸞聖人御影に裏書を施す             68P            (「願泉寺」の初出資料) 1610 15 4.14 貝塚寺内年寄、住民等、新川石見(卜半斎了閑)の苛政を幕府に訴える 68P     了閑から返答書を出す                          70P        6.26   了閑勝訴し、家康、貝塚寺内に諸役免許の黒印状を与えた          71P            (卜半家の寺内支配の確定)        8.8 片桐旦元の名において卜半寺内に対して舟役を免除する           71P 1613   18     家康、貝塚寺内に周濠掘削を命じ、幅3間程度に掘る            ? 浄土宗上善寺、海塚村より寺内南之町に移る                ? 6.2 教如、願泉寺の親鸞聖人御影に裏書きを施す              72P 1615 元和元 5.14  卜半斎了閑、大坂陣落人の首、600 余を堺政所に持参す           73P       閏6.15 卜半斎了閑、和泉国内の豊臣氏の旧領代官を命じられる ? 家康御用の江戸商人亀屋栄仁、卜半斎了閑を大坂城代松平清匡に紹介する   73P 1617    3 7.21  卜半斎、板倉勝重の取次をもって、秀忠の朱印状を受ける          74P 1618 4 1. 京都所司代、寺内諸役及び船役免除について報告              74P 1627 寛永 4 8.   京都の陶工酒井庄太郎、堀新町に来たり、音羽焼を始める          ?            (和泉音羽焼伝承) 1636   13 4代卜半斎了周、上野東叡山にて剃髪得度、金涼山真教院の山院号を受け、            以後、東叡山の支配に入る                        563P?    11.9  家光、寺内諸役免許の朱印状を下す                    76P 1645 正保 2 閏5.18 東本願寺宣如上人を通じて、貝塚卜半手作りの水粉を後水尾上皇に献上す            べき旨下命あり                             78P この頃、津田の花形塩始まる                       ? 1646 3 この頃、卜半家の裁判権すでに幕府公認                  78P 1648 慶安元     町制区画の初見記録            (所謂「慶安元年絵図」願泉寺蔵) 1649 2 感田明神社造替成る                           645P? 1650 3 感田神社、吉田家によって和泉国式内62社に列せられる           ? 1651 4 7. この時、寺内年寄7名                          ? 1663 寛文 3 大工三ツ松村岸上貞由を棟梁となり、願泉寺本堂を造営           文献(1) 1665 5 7.11 家綱、寺内諸役免許の朱印状を下す                    76P 1668 8 7.11 卜半家、この年より屋敷別に新たに「御普請役」を寺内町民に課す      ? 1673 延宝元     津田の塩焼壷始まる                           ? (津田は寺内北側の集落 「いつみ つた 花焼き塩」銘 後に「泉州麻生」) 1676 4 4.7 寺内年寄中、藩役人宛年貢の責任を負う請文を提出             80P 1681 9 幕府巡視役一行、貝塚寺内及び岸和田藩領内を巡見につき、調書を予め作成            「屋敷大小1,300余、人数7,500人余」                   84P 1682 天和 2 7.30 朝鮮信使来朝につき、国役賦課のため村高報告の幕命あり、貝塚より大坂役            所に対して無高・諸役免許の旨報告                    84P 1685 貞享 2 6.11 綱吉、貝塚寺内の朱印状を下す                      76P 1688 5 3.16 貝塚卜半役所、堀・海塚・半田・福田・久保・小瀬の六ケ村散在の仏供田畠            を寺内周辺にまとめるにつき、六ケ村と談合成り、岸和田藩了解を経て替地 90P 1696 元禄 9 7. 卜半家、岸和田藩に対して、寺内周辺の仏供田畠に藩主公認の墨付を頂きた            いと申出る                               107P 8.14 貝塚寺内書上を大坂奉行所に提出「家数1,536軒、人数7,110人」       近藤(24) 1698 11 岸本了円、妙心夫妻、蓮如上人御影を願泉寺に寄進             110P 1700 13 4. 貝塚寺内年寄等、古来よりの年寄所管事務の慣行書類を作成         110P 1707 宝永 4 5.22 午後2時、大地震                           115P 1709 6 3. 6代卜半斎了友、輪王寺宮より真教院を永代常院室に仰付けられる      ? 12.14 宗福寺叔恵、感田大明神役勤仕を許される                 116P 1710 7   例年3月に行われる宗旨改に基づいて、卜半役所が寺内住居町人の宗旨状況            及び総人口の覚書を作成「人数合7,536人」 近藤(26) 5.3 幕府巡見使一行、貝塚に宿泊し、岸和田藩領内及び貝塚寺内を視察      116P 1713 正徳 3 12.7 貝塚寺内陸浦の高札の種類を堺奉行所に提出              119P 1714 4 10.19 卜半役所、寺内ばくち停止、火の用心、遊女宿取締を令す          ? 1718 享保 3 7.11 吉宗、貝塚寺内諸役免許の朱印状を下す                  77P 1724 9 3. 貝塚寺内、天和2年の旧例に従い、国役高懸り断り書を大坂奉行所に提出   121P 1725 10 9. 卜半家来、血判の起請文を老役に提出                   ? 1728 13 5. 貝塚感田大明神社修覆のため、氏子一人に十文宛を年四季、二年間寄進 123P 1733 18 6. 卜半役所、寺内に野郎・遊女を抱え置くことを禁じる           ? 1739 元文 4 5.28 感田大明神下僧教円、観音信者に奉加銭を集め、境内観音堂に33ケ所観音木 像を安置したい旨、卜半役所に願出る   128P 1746 延享 3 4.2   幕府巡見役の貝塚視察に備え、寺内調書を作成         130P 1747 4 8.11 家重、貝塚寺内に諸役免許の朱印状を下す 77P 1758 宝暦 8 11. 卜半役所、魚類売買業者の心得を示す 133P 1766 明和 3 3.3 感田明神社、神祗管領より大明神の宗源宣旨を受ける 134P 1770 7 6.11 紀州俟徳川重倫、午前八時貝塚着、十時出発 139P 1780 安永 9 3.21 感田神社神門再建 144P 1786 天明 6 8.19 日光輪王寺門跡の口入により堺奉行と卜半家との応接法式定まる 152P 1788 8 9.11 家斉、貝塚寺内諸役免許の朱印状を下す 77P 1794 寛政 6 貝塚浦高札書直し、高札場普請、浦会所垣修繕を行った 159P 1798 10 5.25 堺奉行所に対し、貝塚寺内人口調書を報告した「5,735人」 165P 10.2 卜半真教院了覚死し、長男了恕より、忌明の上を以て、慣例に従い、真教院            と改め、江戸表へ継目御礼に下りたい旨を堺奉行に伺いでた    165P 1799 11 8. 旱天のため、度々雨乞を行った 166P 11. 卜半役所より町方に触状を出し、町人規律の厳正を期した 167P 1800 12 4.15 貝塚寺内に触状を以て、塵芥を川筋、畠等に捨てることを禁じた 168P 8.11 貝塚の御堂年寄を廃止し、天明8年以前の如く、その事務を惣分年寄の所管 とした 168P 12. 貝塚卜半の御堂役僧等連署して、役僧にして家頼たる分を守る旨の誓文提出 169P 1803 享和 3 2.25 卜半了恕、家頼中に対して政令を発した 5. 卜半より京都所司代初入りの節、御礼の旧格を届出る 173P 1804 文化元 9.11 卜半了恕より家来、町方に対して倹約令を発す 183P 1805 2 5. 貝塚年寄より、町勢の大要を記して、伊能忠敬に報告した 191P 1807 4 幕府より天領私領の別無く、米価維持のため囲米を命ぜられ、貝塚では一旦 引き受けたが、やがて寺内の特殊性を以て、拒絶の運動を試み、旧例を記し て堺奉行所に願出た 196P 1809 6 2.21 朝鮮信使来朝について高懸りを課する幕命に対し、貝塚より御免の慣例を大            坂西奉行所に届出 202P 2.22 紀州侯貝塚止宿                             202P 1810 7 3.13 岸和田藩、郷村民の貝塚寺内法会参詣を禁止する              206P 4    貝塚卜半役所、株の石高に拘らず、醸造米実石数を確定せしむ 207P 10.8 紀州侯一行貝塚止宿                          211P 1811 8 1. 感田神社惣代より社僧宗福寺を卜半支配とせられんことを願い許される 214P 1. 堺奉行所囲米命令を発するが、貝塚は免除免除される 214P 1812 9 1. 感田神社社僧宗福寺、江戸上野東叡山直末となり、貝塚惣分年寄より社僧に            対して従来の仕来りを守るよう申渡す 220P 1813 10 5.4 感田神社火災、本殿・拝殿・御供所及び境内社2社焼失 223P 9.15 紀州侯貝塚止宿 224P 1814 11 8.4 感田神社本殿造営成り、正遷宮を願う 226P 1816 13 3.3 紀州侯貝塚止宿 230P 1817 14 1. 素人無役大工営業禁止令出るも貝塚大工は除外される ?        4.6   紀州侯貝塚止宿                             234P 12. 歳末に際し、貝塚難渋民救恤 241P 1818 文政元  貝塚卜半より堺奉行所に対し、刑罰治安関係の諸事項について、寺内にて独            断に処置するものと、届出るべきものについて伺書を提出          247P 1821 4 4.3 堺奉行松平石見守一行貝塚その他天領巡見 257P 1822 5 2.6 紀州侯一行、卜半屋敷にて中食 257P 4.15 紀州侯、卜半屋敷止宿 259P 1824 7 3.10 堺奉行水野遠江守一行巡見、卜半家小憩、人足貝塚30人提供 268P 1826 9 2. 貝塚浦に浜会所新築  277P 1829 12 6.25 将軍上使貝塚本陣にて昼休 284P 1832 天保 3 8. 寺内浦方年寄、浜上げ荷物に浦役を課し、浜会所費用に充てること許される 298P 1833 4 貝塚御坊財政仏事関係を惣分の所管に移す 301P 1836 7 12. 卜半役所、貝塚窮民に救米を施す 309P 1837 8 7. 貝塚救窮民救済のため、募金を行う 310P 1845 弘化 2 11.12 寺内氏神感田神社僧得順、看坊となり惣分との慣行を承認する 337P 1846 3 閏5. 卜半了諦、家督の礼のため江戸参府 338P 9.   卜半役所、貝塚寺内寺社帳を堺奉行所に提出 339P 岸本清兵衛等貝塚郷校設立 ? 1849 嘉永 2 4.21 将軍上使貝塚通行 342P 9. 貝塚魚市場を卜半役所直支配とする 343P 1850 3 10. 貝塚御堂にて難渋民に粥施行 345P 1853 6 2. 卜半役所、貝塚御用大工職の鑑札を改める 354P 1854 7 5. 卜半家より老役所・家中一般・賄方料理方に心得書を申渡す 359P 1855 安政 2 8. 寺内北之町年寄3名申合せ、ほしいままに退役を申出、卜半役所に召喚 361P 9.11 将軍家定、貝塚寺内諸役免許 77P 1857 4 閏5.15 貝塚問屋仲間、商品課税の減額を卜半役所に願出             364P 1859 6 4. 願泉寺にて親鸞聖人600回忌法要執行のため寄付を集める          366P 1860 万延元 4.22 貝塚問屋一同、浦役免除方を卜半役所に願出                369P 9.11 将軍家茂、貝塚寺内に諸役免許 371P 1861 文久元 4. 卜半家、近年町民地頭軽悔の状を堺奉行に報告               373P 12. 卜半家、家来に対し「御家掟」を発す 566P 1866 慶応 2 1.17 卜半役所、惣分年寄中に対して町方取締を申渡す 391P 3.11 寺内警備のため北入口番所を復活 395P 3.28 貝塚渡海船持株仲間、卜半役所の異議により堺奉行所の公認取消される 396P 1867 3 8.24 貝塚寺内、堺奉行所の廃止に伴い大坂奉行所所管に移る 591P 1868 明治元 1.22 貝塚寺内、大阪鎮台管轄下に入る 645P 6.22 大阪府より堺県を分ち、貝塚寺内と沢村のみ堺県              658P 1869 2 2.2 卜半了諦、家来一同に剣術稽古させる                   413P 2.   貝塚寺内畑地棹入れ                           415P 3.7  卜半役所、浦方年寄に浜台場の修理を命ず                 417P 5.22  卜半家来目黒青海、熊田宇内、卜半家へ行政意見書を出す          423P 9.1 この年寺内戸数946、人口3,958                      421P 1871 4 1.5   社寺領上知に伴い貝塚寺内適用                      434P 3.20  旧貝塚寺内南之町本陣に貝塚郷学創設 3. 貝塚寺内上知                      434P           (卜半家による寺内支配の制度上の終焉) 5.15  旧社寺領上知に関する太政官布告により、寺内地子を堺県に収納、内2割5            分を卜半家に支給                      434P 1873    6 1.   貝塚元本陣を区長詰所とする 445P 5.7   寺内境界門を取払う 451P 1876 9 1.20 社寺朱墨印地再詮議の旨、堺県より卜半家に伝達される 464P 3.   卜半了諦、貝塚寺内は社寺領ならざることを申請              464P 1878 11 11. 願泉寺より本願寺に宛、直門徒戸数を報告、645戸 473P 1880    13 3. 祖先が寺内開墾の功労者であることをもって、卜半家に対して金禄公債を下            賜  (卜半家による寺内支配の実質終焉) 473P
注 1.ページ数のものは貝塚市役所1958『貝塚市史』第3巻 史料   2.近藤( )は近藤孝敏1996「貝塚寺内町関係資料集」『貝塚寺内町遺跡』貝塚市埋蔵文化財調査報告第39集 3.文献(1)は矢内一磨1995「願泉寺本堂再興造立奉加関係文書について」『寺内町研究』創刊号 貝塚寺内町歴史研究会 4.?は直接の同時代文献等が発見されていないもの、公表されていないもの   5.内容中( )書きは管理者注 
[ いろいろへ ] [ 貝塚寺内年表 ]
HOME

Copyright (C) 2002-2009 麻夢路  貝塚考古学研究所

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送