中世農地開発と加治・神前・畠中遺跡


     中世農地開発と加治・神前・畠中遺跡  

『近木郷を考古学する−役所・寺・街道−』2002
単に図録として事実を羅列するだけでなく、簡単な論考を載せてみてはとの上司命令で書いたものです。4頁に無理矢理レイアウトしたので、いろいろと甘い、解釈が飛んでいる所ありです。(もともと論文を書くつもりで、準備していたものですが、その当時1997年頃、他の市でこれだけデータがとれる遺跡がなく、頓挫していたものを文章化。これ書いたので、論文にする気が失せた・・・。)
2005/4/27。まずは図面なし。2005/5/2図を入れました。粗いですがご勘弁。

はじめに

 7世紀から10世紀にかけて役所的な建物が存続し、近木郷(大阪府貝塚市加神・畠中周辺)の中心的な役割を担った加治・神前・畠中遺跡であるが11世紀以降その様相が一変する。建物、井戸などの集落様相から、溝を主体とする農地に変容するのである。農地開発の開始時期を確定する資料に恵まれないが、集落遺構が希薄となる11世紀以降にその時期が求られる。

 当遺跡が含まれる近木郷は条里が残るとされる1)。中世に高野山領荘園となり豊富な文献資料が残るため、文献史学、歴史地理学では古くより注目されてきた。しかし、条里の復元や地域社会のあり方などの研究が主であり、解明すべき課題は多い2)。

 今回は考古学的にアプローチできる市内の農地変遷について検討し、本遺跡における変容の原因について一つの可能性を探ってみたい。

I 条里遺構(図1)(単純にスキャンしたので縮尺は変わっています。)

 農地を考える上で、条里を無視することはできない。本市においては、丘陵部を除いて様々な条里が復元されている。市の北側、岸和田市から津田川右岸まで続き、阡線方向が東へ38°振るもの(条里A)、内陸部に入った麻生中から名越にかけてに存在する西に21°振るもの(条里B)、加治・神前・畠中遺跡を含む近木川右岸の西へ36°振るもの(条里C)、本市西部、近木川左岸の西へ60°振るもの(条里D)が代表的なものである。

 条里制は班田収受制を契機として作られたとされる。各地の市史では条里遺構が残ることにより、古代より開けていたと説明されることが一般的である。しかし、近年、発掘調査の進展により、異なった理解が浸透している。制度としての成立は古代であるものの、広範囲に施工されるのは中世になってからというものである。

II 発掘調査例(図1)

 それでは、各調査の具体例を見てみよう。(図1、2内の地点番号は文章の番号と一致する。)

1.加治・神前・畠中遺跡3)

 平成3年、市民文化会館建設に先立つ発掘調査を実施した。地山面に西へ36°振る方向性を有する坪境溝と多数の鋤溝群を検出した。坪境溝は、幅約2m、深さ約0.8m、検出長70mを測る。埋没時期は出土した瓦器椀等から13世紀の年代が与えられる。鋤溝はこの溝の北東側、南西側において検出した。南西側では10〜20mのスパンを持ち、溝に並行、直行、並行する纏まりを、北東側では溝に対して並行する纏まりを確認した。坪境溝周辺のみの検出ではあるが、鋤溝群の纏まりは一反単位を示しているといえる。また、坪境溝等大規模な施設を検出せずとも、鋤溝群のあり方によって条里の方向性を確認できることを証明したのである。  

2.加治・神前・畠中遺跡

 平成5年に実施した民間開発に伴う発掘調査において、古代、中世の2面の遺構面を検出した。古代では東西、南北方向の道状遺構を検出した。上面の中世(13世紀以降)耕作面は東に52°振る鋤溝群を検出した。

3.名越遺跡

 平成6年に実施した民間開発に伴う発掘調査において、古代から現在にかけての4面の遺構面を確認した。古代では溝跡等の多数の遺構を検出したが方向性等の規格は認められない。中世(13世紀以降)と考えられる2面では、東に20〜27°振る鋤溝群を検出した。

4.新井ノ池遺跡

 平成6年に実施した民間開発に伴う発掘調査において、古代から中世にかけての3面の遺構面を確認した。古代では溝、建物等の遺構を検出した。中世(13世紀以降)では東に50°振る方向性を持つ鋤溝群を検出した。

5.新井・鳥羽遺跡

 平成6年に実施した民間開発に伴う発掘調査において、古代から中世の耕作面5面を検出した。古代では溝等を多数検出したが方向性などの規格は持たない。鋤溝群は下層から西に69〜84°、61°、56〜62°、56°と変遷する。13世紀から16世紀の年代が与えられる。

6.沢城跡4)

 平成3年に実施した発掘調査において、地山面上に中世(13世紀)の耕作面を検出し、方向は東西である。

7.沢西遺跡

 平成8年に実施した民間開発に伴う発掘調査において、中世から近世にかけての3面の遺構面を検出した。流路跡、鋤溝を多数検出し、鋤溝群は下層から東へ43°、西へ43°から東へ60°と変更、東に51、52°振ると変遷する。13世紀から16世紀の年代が与えられる。

8.沢西遺跡5)

 平成2年に実施した発掘調査において、地山面上で古代(10世紀)と中世(13世紀)の耕作跡を検出した。古代では西へ27°振る畠跡、中世は西へ31°振る鋤溝群を検出した。

 沢西遺跡において古代の耕作遺構を確認した以外、古代の状況は規格性等は認められない。条里といえる規格をもつのは中世からであることを示してる。鋤溝内の出土遺物が少なく開始時期の特定は難しいが、出土の傾向から見ると13世紀初頭には各地で施工されている。

 それぞれの状況は、条里Aでは方向性は近似するものの、時期と場所によって変化があり、復元範囲全面に施工されていないことが窺える。条里Cでは広い範囲で復元と同じ施工がされている。条里Dでは近似する値を示す部分もあるが全く異なる部分が存在し、こちらも復元区画は存在しない。

図1

III 河川の状況(図2)(単純にスキャンしたので縮尺は変わっています。)

 図2は河岸段丘崖、池、発掘調査例を総合して作成した河川復元図である。本市域は和泉山脈から派生する尾根と近木川によって開析された谷地形によって構成され、この図から近木川の氾濫の様子がよく理解できる。

 発掘調査によってこれらの時代を確定できる例は少ない。条里Aでは新井・鳥羽北遺跡6)(9)にて中世に埋没したと見られる旧河川を多数検出した。条里Cに近い海塚遺跡7)(10)では14世紀に開析谷を埋めて農地を造成している状況を確認した。加治・神前・畠中遺跡8)(11)では段丘崖部分に平安時代後期の窯跡を検出し、この時期には崖になっていたことを確認した。古代以前の遺跡が河川跡の及ばない部分に存在することから見ても、平安時代後期から中世前半までは、これらの河川跡は河川や開析谷として存在していたといえる。

 この状況と農地の発掘成果、復元条里を検討するとその法則性が明確に見えてくる。条里Aはまず津田川の大きな氾濫原が存在し、その南側にも小河川が多数存在しており、復元にある広範囲な区画は施工できない。部分的なものにならざるを得ない。条里Cは近木川と海塚遺跡にて検出した開析谷の間に大型の河川跡は確認できず、広い範囲で平坦面の確保ができる。条里Dは広い範囲の確保は可能なものの、古い時代の見出川浸食作用が大きく、近木川段丘崖から見出川に向かって傾斜している。よって、こちらも広い範囲での施工は困難であり部分的なものである。条里Bに関しては、現状での資料が少なく確定はできないが、河川跡が1ヶ所推定できることと、東側の丘陵上から近木川に向かっての流れがあるようであり、河川浸食作用は影響しているものと見られる。

 条里施工の時期は中世であり、復元範囲での施工は実施されるものの、復元のような広範囲なものは条里Cだけであったことが明らかになったといえる。その他のものは中世から近世にかけて地形的な不利を克服しながら、復元されている農地が形作られたのである。

図2

IV 見えてくるもの

 この状況からは様々な事象が見えてくる。まず第一に技術的な部分である。復元条里は施工当初からのものでないが、近木川の旧氾濫原のほぼ全域において農地開発は実施されている。これだけの大工事を遂行するには土木技術の大幅な進歩無しには説明できないだろう。当時、開発地に近接して河川や開析谷が存在するとしても、造成後の水利管理をも視野に入れての施工は大きな技術革新があったと考えられる。また、これだけの農地を耕作する技術も同時に進歩したと考えられる9)。

 次に農地整備に伴う生産量の増加。古代における農地の状況を提示する資料はまだ十分ではないが、中世の状況からは前代に倍する農地が生み出されている状況が読みとれる。そこからの生産量は飛躍的にのびたのは確実である。本来の目的は生産量の向上にあるとも言えよう。

 第三にこれらを施工した集団の問題である。これだけの大工事を同一集団が施工したとは到底考えられず、いくつかのグループが存在していたことは自明であろう。規模からしても集落を越えた共同体を想定しなければ説明できない。当該時期の集落様相について十分な調査が実施できておらず、地域の支配関係・共同体について、考古学資料によって言及できないが、集団関係についても再編があったと見られる。

 地下に埋もれた資料から上記のように述べたが、時系列的な仮説に置き換えると、支配関係の変更→地域集団の再編→集団維持のための生産量確保→農地再編というストーリーが組み立てられる。

V 加治・神前・畠中遺跡の位置付け

 役所的な建物群、遺構が突如なくなることから、地域支配に何らかの変更があったことは確実である。また、それらの建物を全く否定するように農地に変更している点、地域勢力の繁盛が読みとれる。ほぼ遺跡全域にわたって施工している点からしても、今回対象とした4つの地域の中で最も大きな勢力であったことが窺える。これらの集団が突然現れたとは考えられず、古代の役所的な集落を支えた地域集団がその出自であろう。

おわりに

 発掘調査による遺構の分布状態では集落から農地に移行し、一見すると衰退したような感を受ける。しかし、農地造成という観点に立てば、その規模から逆に地域勢力が強くなったことが想定できる。視点を変えることによって遺跡に対する意味付けが変わる好例であるといえる。



注)
1)貝塚市役所1955『貝塚市史』第1巻 通史
2)近藤孝敏1994「近木庄の歴史と在地の動向−その成立と展開を中心にして−」『ヒストリア』第144号 大阪歴史学会
3)貝塚市教育委員会1993『加治神前畠中遺跡発掘調査概要−仮称市民文化会館の調査−』貝塚市埋蔵文化財調査報告第26集
  以下、発掘調査で引用文献のないものは未発表のものである。
4)貝塚市教育委員会1992『貝塚市遺跡群発掘調査概要]W』貝塚市埋蔵文化財調査報告第24集
5)貝塚市教育委員会1992『沢西遺跡発掘調査概要』貝塚市埋蔵文化財調査報告第23集
6)貝塚市教育委員会1993『新井・鳥羽北遺跡発掘調査概要』貝塚市埋蔵文化財調査報告第25集
7)貝塚市教育委員会1998『海塚遺跡発掘調査概要』貝塚市埋蔵文化財調査報告第45集
8)貝塚市教育委員会2001『加治・神前・畠中遺跡発掘調査概要10』貝塚市埋蔵文化財調査報告第59集
9)これらについては古くから指摘されている。開発の開始時期は11〜12世紀とされる。農具の変化等も想定されている。
  木村茂光1982「第3章 大開墾時代の開発−その技術と性格−」三浦圭一編『技術の社会史 第1巻 古代・中世の技術と社会』有斐閣

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