和泉音羽焼


     和泉音羽焼−大阪府貝塚市所在−  2003/ 1/ 3図追加

今、研究の停滞期状態ですので、ちょっとまとめたものを再録します。初の図入り!ちょっと重いのでの覚悟してください。(^^
図的にはあまり綺麗なものではありませんが、これ以上だと重すぎるので・・・・・。

はじめに

和泉音羽焼は長らく「音羽焼」と紹介され、地元の地域史家によって地道な調査がなされてきた。1)しかし、決定的な史料が欠如していたため、推定の域を出るものではなかった。「又音羽焼というものあり。寛永4年(1627)8月山城国京都五条通り酒井庄太郎なるもの和泉国泉南郡堀新町に来たり、陶器製造を始め、夫れより明治16年(1883)9月、酒井廣正の廃業に至るまで、連綿継続せりという。」2)という伝承である。

平成8年の貝塚寺内町遺跡の発掘調査にて刻印を有する製品が出土したことによって、名称が「和泉音羽焼」であったことが判明した。3)これが新聞報道されたことを契機として、作陶にかかわった一族の方々とのコンタクトに成功し、伝承と思われていた部分の多くが事実であったことが判明したのである。

これらの点については、平成10年発行の『貝塚寺内町遺跡発掘調査概要』4)において、事実関係の報告を行った。しかし、紙幅の関係から総括的な報告にはできず、分析としては不十分なものであった。今回はこれまで個別に報告してきたものをまとめ、和泉音羽焼の概要を示す。


1.窯跡推定地(図1)

窯跡に関する同時代文書、発掘調査例はない。伝承では、現在の大阪府貝塚市堀3丁目(先の「堀新町」)に窯跡が推定できる。大阪湾に面した海岸段丘斜面にあたり、比高約2mを測る。推定地周辺には多量のサヤ、棚板、窯壁片、素焼陶器等が多数散布し、段丘斜面という地理的な条件と併せて、窯を築くには適地である。推定地には民家が建ち並び、発掘調査によって遺構等が確認できないため、単独の遺跡とは認定せず、現在は津田遺跡の一部に含めている。

平成4年の発掘調査において多量のサヤ等が出土した遺跡が堀新遺跡である。窯跡推定地から海岸部に600m下がった地点であり、旧海岸線にあたる。周辺住民からの聞き取りでは、当地は陶器の積出地点であり、出荷に耐えない製品の捨て場と伝えられていた。しかし、製品の名称、出荷の具体的な様相は伝えられておらず、発掘調査においても関係する明確な遺構が発見できないこと、サヤ等窯道具が製品以上に出土していること等を重視すると、積出地点との断定し難い。

和泉音羽焼 図1 126KB


2.聞き取り調査等によって判明したこと

発掘調査、聞き取り調査によって判明している点について以下箇条書きにてまとめる。
@創業者:酒井幸助。推定文政10年(1827)生、宅野與平実子。明治12年(1879)没。
A廃業者:酒井廣正。安政5年(1858)生、幸助実子。明治30年(1897)没。
B創業推定時期:嘉永年間(1848〜1854)以降。幸助家督相続以降。
C廃業年:明治16年(1883)
D屋号:音羽屋。過去帳によると「音羽屋幸助」とある。

これらは、酒井家に残る少ない史料、貝塚市内に残る幸助氏の墓石等からの推定である。この内、幸助氏、廣正氏の没年、屋号は過去帳によって確認でき、廃業年は地域による伝承と子孫に残る伝承とが一致する。

E名称:和泉音羽焼(図3)
F窯跡推定地:津田遺跡(図1、2)
G窯道具刻印:「幸」「丸に幸」。幸助氏の「幸」をつけたもとを考えられる。

津田遺跡での表面採取資料、堀新遺跡での発掘調査資料からE、Gは確実であるが、窯跡等については、全く資料が欠如している。  このように、幸助氏、廣正氏親子2代によって作陶されていたこと、操業年は最長で1848〜1883の約40年間であることが判明した。

和泉音羽焼 図2 117KB


3.市内での出土例

以下、出土した遺物について概要を示す。
(1)津田遺跡5)
窯跡推定地は先述のとおり本遺跡範囲の一部に含めている。遺物の散布状態から灰原と推定される地点での表面採集遺物について、資料紹介があるだけである。

遺物構成としては、サヤ、トチン、棚板等窯道具類、素焼陶器、製品である。量的には圧倒的に窯道具が多い。製品類は細片となっており、器形が把握できるものは少ない。

(2)堀新遺跡6)
平成4年、共同住宅建設に伴う発掘調査によって、窯道具、製品等が多量に出土した。本調査によって様々な器形が判明した。

窯道具関連では、サヤは3種あり、刻印を有するものは「丸に幸」。棚板は幅14p、長さ約23p、厚約4pを測る。刻印を有するものは「幸」「丸に幸」である。窯壁は破損が激しいため規格が明確ではないが、厚約10pを測る。ピンは2種、ピン型が1種確認できる。トチンは砂粒を多量に含む粘土を直接陶器に底等に巻き付けるもの、精良な粘土を用い、カンナケズリによって整形し焼成後使用するものの2種確認できる。 製品にかかわるものでは、行平の取手型が1種確認できる。

製品については多種のものが確認できる。鍋、土鍋、片口、鉢、皿、湯飲み、杯、壺、徳利、油入れ、灯さん、灯明台、灯明、仏飯器、仏花器、神酒徳利、植木鉢、おろし板、蓋類等がある。本遺跡出土遺物も細片となっているものが多く器形の把握は難しい。製品の詳細は貝塚寺内町遺跡にて述べる。

(3)貝塚寺内町遺跡7)
本市における近世資料のほとんどは本遺跡から得られたものである。廃棄土坑等から多量に出土する陶器は器形を把握するための良好な資料である。

和泉音羽焼は砂粒を含まない精良な胎土を用い、灰白色に焼き上がったものに灰オリーブ色釉を施すものが特徴であるが、土瓶では数種の釉薬を用いている。以下、器種毎に示す。

鍋は、片手(行平)、両手があり、行平は外面にトビガンナ有無で2種、そろばん玉状鍋部、鍋部が浅いもの合計4種確認できる。両手鍋は行平状鍋部にトビガンナ有無で2種、球形体部に口縁部が大きく開くもので器高の違いで2種確認できる。基本的には8種確認できる。取手文様の違い、釉の違いでさらに機種が増える。

土瓶は外面上半にトビガンナを施すもの、沈線多条のものが主であり、青土瓶、イッチン土瓶、山水土瓶、鉄釉土瓶、沈潜多条に鉄絵を施すもの、手づくねのものがあり、基本的には8種確認できる。規格の違いでさらに分類は可能である。

片口は内傾する口縁部とその直下に片口部がつくものが主であり、直立した口縁部に指押さえによる片口部をつけたものが少量確認できる。

鉢は小鉢が多い。直立した口縁部に外部に凸帯を巡らすものの大、小、小鉢では口縁端部を厚くするもの、外面下部にトビガンナを施すもの、外面に段を多用するもの、2重口縁のもの、腰折のもの、無高台のものがある。手づくねのもの大、小が確認でき、基本的には10種が確認できる。

皿は内面に櫛目を施した小皿が主であり、口縁部が内湾するもの、手づくねのものがある。

上記は出土量が比較的多く、器形、種類等が復元可能なものである。以下、量的に少ないものをまとめて記す。

湯飲みは端反のものが主であり、口縁部が直立するものが少量ある。杯はぐい飲み状のものが主であり、体部が球形のものがある。壺はほとんどなく、口縁部が直立するもののみである。徳利は少なく、体部を数ヶ所窪ませ鉄釉をかけたものが確認できる。油入れ、灯さん、灯明台は、それぞれ典型的な器形のみである。灯明は油入れを扁平にしたもの、神酒徳利口縁に切り込みを入れたもの2種がある。仏飯器典型的な形のもの1種、仏花器は典型的な器形で緑釉、鉄釉の2種、神酒徳利は緑釉、鉄釉、白色釉の3種、植木鉢は小型擂り鉢状のもの1種、おろし板は板づくりで、おろし目の粗いもの、細かいもの2種がある。

蓋類は鍋、土瓶に対応して多種が存在するものの、セット関係が判明しないものも多数存在し、種類は非常に多い。

本窯の特徴は、非常に丁寧なつくりで、多種類のものを製造していたことである。

和泉音羽焼 図3 81KB 和泉音羽焼 図4 87KB 和泉音羽焼 図5 92KB


4.分布と年代

本窯製品の分布範囲は、当該時期の発掘調査例が非常に少ないため明確ではない。現状把握できる範囲は、北が岸和田城下町8)、南は佐野町9)であり、非常に分布範囲は狭い。当該時期、各地で同様の陶器生産が流行し、器形、胎土、釉調など非常に類似しているため、他地域のものが使用されていても生産地の判定が困難ということもある。本窯に関しては、窯跡推定地では長大な若しくは多数の窯を構築できる状況にはなく、広範囲に流通させる量の生産は困難と推定でき、貝塚寺内を中心として旧岸和田藩領内部で流通でしかないであろう。

年代に関しては、遺構の年代が確定できる例が調査件数に比して少ないため、明確にはなっていない。現状幕末前後に多量に出土し、近代になると胎土が明らかに異なる他地域産は入ってくることが言えるのみである。


おわりに

先述のとおり、本窯は伝承による研究が先行していた。伝承では創業年代が2種あり、先に紹介した寛永4年(1627)10)と天保13年(1842)11)である。前者については当該時期に該当する製品が存在しない。よって、寛永期に創業年代をあてることはできない。同時代文書も全く存在しないことからも言える。後者であるが、先に聞き取り調査から推定した嘉永元年よりも5年遡り、非常に近似値である。素直に解釈すれば、年代が若干古く伝承されたともできる。しかし、幸助氏が宅野家に生を受けながら、酒井姓を名乗っている点を重く見た場合、天保期に和泉音羽焼が存在し養子縁組等によって幸助氏が相続した可能性も否定できない。

19世紀は寺内でも陶器生産の動きがある。願泉寺御庭焼と言われるもので、卜半御庭焼とも呼ばれ、貝塚寺内領主である願泉寺住職卜半家の依頼により文政11年(1828)、仁阿弥道八、尾形周平らによって焼かれたものとされる。12)その後、萬延文久年間(1860〜1864)にも再度御庭焼ありと伝える。地元には同時代文献はないものの、市内の旧家には伝世品が所蔵され、全くの伝聞であるともできない。しかし、その具体相は不明である。ただ、願泉寺文書の中に「陶器所敷地指図」13)があり、貝塚寺内の中に陶器生産にかかわる施設が存在していたことは間違ない。

この御庭焼が和泉音羽焼に直接影響を与えたとの資料は存在しない。しかし、第2次にあたる萬延文久年間は本窯は操業しており、寺内と堀新町の位置的な関係からすると、影響されたことは想像に難くない。また、第1次の文政11年に関しても、すでに窯業が開始されていた等何らかの下地があった上での招聘であると理解したほうが自然であろう。上記のように幸助氏の姓の問題とかかわって、幸助氏以前に生産されていたことを否定できない点からも言えよう。

刻印によって名称が判明し、分析が進展したかにみえる和泉音羽焼であるが、出土資料公開から6年の年月が過ぎたにもかかわらず、その後の進展はない。窯跡の発掘調査を実施していないとう不利はあるものの、やはり同時代文書がないことが大きな問題である。生産、消費という経済史の位置付けにて明らかにすべきものであり、今後の文書調査の進展に期待したい。

[注]
1)安田憲三1941「摂・河・泉・古陶磁窯集覧(2)」焼きもの趣味7−8 学芸書院 
  出口神曉1953「和泉の古陶器」和泉志第8号 和泉文化研究会 
  貝塚市1955『貝塚市史 第1巻 通史』
2)塩田力造1921『日本近世窯業史』大日本窯業協会 
3)貝塚市教育委員会1998『貝塚寺内町遺跡発掘調査概要』貝塚市埋蔵文化財調査報告第43集
4)稚稿1998「考察2 「和泉音羽焼」について」『貝塚寺内町遺跡発掘調査概要』貝塚市埋蔵文化財調査報告第43集 貝塚市教育委員会
5)乾哲也1990「貝塚音羽焼灰原採取の陶磁器」摂河泉会報第10号 
  南川孝司、渋谷高秀、森村健一1991「貝塚市の音羽焼の表面採集遺物」『関西近世考古学研究T』 関西近世考古学研究会 
  森村健一編1993『貝塚・音羽焼の諸問題』近世文化研究会他 
6)貝塚市教育委員会1994『堀新遺跡発掘調査概要』貝塚市埋蔵文化財調査報告第33集
7) 3)他
8)岸和田市教育委員会1995『岸和田城遺跡−仮称岸和田自然資料館建設に伴う発掘調査報告書−』
       岸和田市埋蔵文化財発掘調査報告書3
  岸和田市教育委員会1995 「岸和田城遺跡」『平成6年度発掘調査概要』岸和田市文化財調査概要20
9)泉佐野市教育委員会文化財保護課冨田博之氏のご教示による。
10)2)同文献
11)安田憲三1941「摂・河・泉・古陶磁窯集覧(2)」焼きもの趣味7−8 学芸書院
12)安田憲三1945「周平略年譜〔尾形周平新研究の1〕」古美術研究第168号
13)願泉寺文書 整理番号A-0189

関西近世考古学研究10  2002 再録

「貝塚市」の塚は旧字体ですが、ネット上では文字化け対策のため新字体を使用しています。IMEの辞書には異体字で入ってますが・・・・・。

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