焼塩壺のふるさと−大阪府貝塚市の事例−


     焼塩壺のふるさと−大阪府貝塚市の事例−  

『焼塩壺の旅−ものの始まり堺−』2000
2005/5/16。一般向けシンポ資料の紙上報告ですので、表現はやわらかいです。まずは図なし。6/3図追加。

はじめに

 江戸、京、大坂、堺等で出土する近世の土器に「イツミ 花焼塩 ツタ」「泉州麻生(せ んしゅうあそ)」と刻印された塩の壷(焼塩壺)がある。刻印の地名から現在の大阪府貝塚市域 にその産地が考えられている。しかし、地元には当時の生産や販売の文書はなく、贈答し た記録が少量存在するだけであり、産地と言っても何も分かっていない。

 そこで、まず刻印にある地名と販売者(?)正庵の在住した津田、貝塚について説明し、 その後、市内出土の焼塩壺について説明したい。(図1)

図1、2

1、地名

 「泉州」は所謂「和泉国」のことで、近世には大鳥郡、和泉郡、南郡、日根郡に分かれ ていた。貝塚市は南郡と日根郡に跨る。北東側の南郡は麻生庄(あそしょう、麻生郷とも いう)、木島庄(きのしましょう、木島郷ともいう)、南西側の日根郡は近木庄(こぎの しょう)である。現市域の大部分は南郡であった。

 麻生庄は中世後半では木島郷の一部であり、中世末、高野山に寄進され独立した荘園と なったとされる。名称の由来は明らかではない。

 近世段階での麻生庄は非常に広い地域を指し、葛城山から大阪湾にかけての地域にあた る。具体的な村名では、大川、秬谷(きびたに)、馬場、三箇山(現在の三ヶ山)、中 (現在の麻生中)、半田、新井、鳥羽、福田、小瀬、永吉(ながよし)、久保、嶋、堀、津田、 南貝塚村(海塚、うみづか)、貝塚の17ヶ村からなる。現在は旧中村が麻生中となり地名を 残している。焼塩壺とかかわる村は津田と貝塚である。(図2)

 津田は大阪湾に面した村で、紀州街道がほぼ中央を縦断する。近世段階の村は現在の津 田南にあたる。岸和田藩領であり、石高は元和頃133石、享保頃173石とある。作付けは 米8割、綿2割とされている。また、70石船1般、漁船1般と小規模ながら浦方もつと める。旧集落部分は周知の遺跡外であるため考古学的な資料に乏しいが、農地部分につい ては津田北遺跡として発掘調査を実施しており、少量ながら焼塩壷等も出土している。調 査では中世後半段階から農地の利用が開始されたことが明らかとなった。花粉分析から近 世では蕎麦の栽培が盛んであったことが判明した。(図2、3)

 貝塚は本願寺が一時的に置かれ、寺内町として古い町並みを残すことから有名である。 周知の遺跡「貝塚寺内町遺跡」と登録しており、発掘調査例は80例を越えている。貝塚 寺内は本市北部の大阪湾に面し、北側は北境川、南側は清水川、東側は南海本線までの部 分がその範囲である。北東〜南西約800m、南東〜北西約550mを測る。寺内の中心寺院 は願泉寺であり、近世には願泉寺住職「ト半」が寺内地頭として、絶大な支配力を誇った。 周辺は岸和田藩領だが寺内は願泉寺領であった。18世紀の初め頃には人口約8,000人を数 え、主に商工業者を住人とする地方都市であった。(図2、3)

 津田と貝塚は共に大阪湾に面して南北に並んで位置し、紀州街道によって繋がっている。 後に、その間には堀新町が形成され、街道を挟み町屋が連なっていた。

 正庵は最初津田に住み、後に貝塚に移ったとされている。津田では地名どおり「ツタ」 を使い、貝塚では「泉州麻生」と刻印したとされている。

図3

2、発掘調査による成果(表1)

 市内の発掘調査成果は中世を中心としたものであり、近世の成果は貝塚寺内のみという 現状である。したがって、考古学的に検証する資料は十分ではない。

 発掘調査によって出士した土器類で、焼塩壷として抽出したものは48例を数える。こ れらも小片になっているものが多く、ロ縁部、底部から認識したものである。体部片だけ のものなど見逃しているものも多いと考えられるが、それでも出土量は少ない。

 貝塚寺内が33点と最も多く、次いで津田北遺跡(12点)、東遺跡(3点)となる。東 遺跡は貝塚寺内のゴミを処分した考えられる土坑(粘土採掘坑の埋戻土)からの出士であ り、生産・販売に関わったとされる2遺跡からの出土と言える。出土は後の時代の遺構内 からのものであり、年代の検討はできない。したがって、刻印の変遷について考古学的に 検討できる資料はない。集中して出土するということもなく、土器生産の場所も推定困難 な状況である。また在所についても不明である。(図5、6)

 発掘調査では無いが、工事中に数十点が出土した地点を「遺跡番号19 泉州麻生焼塩 壷出土地」として遺跡登録している。関係者の話によると、昭和30年頃、工場内改修工 事の掘削中に大量に出土したということである。数量は明確ではないが、机の上所狭しと 置かれていたとのことであり、100点前後は出土したと考えられる。この地点が唯一の大 量出土地点であり、土器生産に関わった施設の存在を考える貴重な資料である。しかし、 その地点は慶安絵図では荒地(濠?)内であり、直接結ぴつけることはできない。

 遺構等の面ではこの様な状況であるが、「泉州麻生」「イツミ・・・ツタ」に限れば遺 物から幾つか言及できる。

 コッブ形では、刻印は長方形二重枠のものはなく、すべて内側二段角枠「泉州麻生」(11 点)である。形態は、破片が多いため明確ではないが、基本的には小川分類4類が中心で ある。鉢形では、刻印は隅丸方形もの(1点)、内側四隅二段角枠「イツミ 花焼塩 ツ タ」(4点)の両方がある。形態は小川分類3類のみである。また、コップ形に「イツミ  花焼塩 ツタ」の刻印のものはない。胎土はどちらも橙色7.5Y7/6であり、雲母は含ま ない。

図5
図6、7

おわりに

 産地であるとされながら、市内における焼塩壺の資料は貧弱なものであり、何かを結論 付けられる状況にはない。逆に他の消費地の分析を参考にしている段階である。

 近世を対象とした発掘調査は貝塚寺内のみであり、今後も急展開することは考え難い。 しかし、寺内の発掘調査を本格的に始めた1994年以前では、市所蔵焼塩壺は堺産コップ 形1点、在地コップ形の蓋1点、刻印のものは1点(図7)の合計3点であったものが、この8年間の 調査で18倍の数になっている。この点を希望として今後の調査に期待したい。



主要参考文献
小川望1993「鉢形焼塩壷類と花塩屋−考古資料と文字資料の検討から−」東京考古第11号
小川望1994「『泉州麻生』の刻印をもつ焼塩壷に関する一考察」日本考古学第1号 日本考古学協会
清水明1994「泉州麻生の塩壺」歴研通信第12号 泉南市歴史研究会

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