うだ話39


     うだ話39  日本考古学協会第70回総会(2004) 研究発表に対するコメント

私の拝聴した範囲でのコメントを掲載します。


・坂井隆「北関東の牛馬生贄祭祀遺構」

群馬県太田市西長岡宿遺跡の発掘調査において、6世紀から18世紀までの各時代の遺構から馬遺体を検出し、埋葬以外のあり方が考えられることを発端として、北関東西部地域44遺跡について集成、検討している。

詳細については、研究発表要旨によっていただきたいが、気になった点をいくつか。

馬歯や頭蓋、下顎骨が湧水地や河川跡から出土することが多く、それらを「水の祭祀」として単純に一括りするのはいかがなものか。干ばつに関わる雨乞い儀礼によってウマが犠牲とされた可能性があるという理解である。

水に関わる遺構からの出土の多さは、その場所の水分によって骨が酸性土から守られたからである。同一の複合遺跡から各時代の遺体が出土する場合は、まずこの条件を考えるべきである。よって、「5.祭祀行為の伝統」とされた部分は、伝統ではなく遺跡の立地環境によるものである。古墳時代から近世に至るまで、同一系統にある集団によって、若しくは、その行為の記憶を伝承する集団関係を有する集団が連綿と存在し、祭祀を行ったなどという理解は承伏できない。

出土のあり方では、遊離歯、長管骨の散乱、歯列状態での出土と様々な状況がある。歯列に関しては、廃棄当初は顎骨の状態であったことが確実である。しかし、下顎、上顎のみの場合、どのような状況にあったものかは容易に判定できない。特に上顎の場合は頭蓋骨まで存在したのか、舌骨部分まで存在したのか判定が難しい。状態によって、行為のあり方が異なるため、その意味合いが異なってくることは容易に想像できよう。遊離歯、散乱骨に関しては、ほぼゴミとしての扱いを受けたと考えた方が妥当な理解と言えよう。部位、数量のあり方からすると、なぜこのあり方で祭祀と言えるのか理解に苦しむ。

遺構に関しては今回興味あるデータが報告されている。出土遺構別で分類すると水関連が78例、住居関連64例、土坑を中心とする遺構が40例と、全体では水関連で4割強でしかないことである。先に水分によって保存されたとにすぎないと述べ、それとは全く逆の結果が得られた訳ではあるが、根拠は別にして、「水関連からの獣骨出土=水の祭祀」とならない良い成果と言えよう。

「祭り」と見られる例はいくつか報告されている。埼玉県北島遺跡では同一個体由来と考えられるウマ歯8本が古代の道路遺構内に掘られた6ヶ所のPitから出土している。埼玉県忍城跡では15世紀末から16世紀の橋脚の根本にウマ頭蓋骨があり、橋脚を頭部に差し込んで据えた状況が見られる。後者について発表者は「水関連」としてまとめているが、これらは「安全祈願」の行為なりを考えた方が理解しやすい。

「4.自然死か生贄か」では推定年齢を考察し、18世紀後半と見られる群馬県藤岡市上栗須遺跡の全身埋葬ウマ22個体を除いて、古代から近世にかけて10歳以下の若い個体であることから自然死でないことを結論づけている。年齢を見ることも必要であるが、全身骨格が出土しない状況を見ると自然死をそのまま埋葬したものはなく、解体等の手順を踏んでいることは明らかである。死因についての特定はできないものの、使用なりを目的とした場合、そのための屠殺は考えられる。

違和感を感じるのは、以下の点。
>18世紀後半にここは死馬の埋葬地であったことは間違いない。
この点、被差別民による斃牛馬処理のあり方を視点に取り入れていないことが気になる。農村他で死んだ牛馬は「捨場」に置かれ、その地域に草場権を持つ被差別民がその処理にあたることとなっているにも関わらず、その点全く触れられていない。社会システムとして確立した近世において、この点を視野にいれず動物については語れないであろう。

牛馬の出土=祭祀という流れ以外については、非常に有用な資料集成であり、視点をかえることによって、当時の様相に迫れるものと考える。


・小俣悟、加納哲哉「近世殺牛祭祀の検討」

東京都台東区に所在する上車坂町遺跡では、17世紀から19世紀にかけての武家屋敷関連遺構、遺物が確認されている。4−8地点では3面生活面を確認され、17世紀から18世紀前半頃と推定される三面より、区画溝、土蔵基礎、地下式坑、井戸等とともに、ウシの遺骸を納めた土坑2基が確認されている。

60号、65号と名付けられた土坑からウシ各1頭が確認されている。両例とも首から上部分が失われ、それ以下の部分が納められている。60号は頭部にあたる部分が他遺構によって破壊されているものの頸椎他は出土せず、頭部はなかったものと推定されている。なお、上腕骨付近に切歯4点が確認されている。

本遺構の理解であるが、草戸千軒町遺跡第36次調査の類例を根拠として、殺牛儀礼の痕跡であると結論づける。頭部が無い点、斃牛馬処理とは考えられず、近世、近代の史料、伝承に見られる牛馬頭部を用いた雨乞儀礼を傍証としている。

さて、今回は事例報告を目的としたもので、位置づけについてはあくまでも仮説とのことであるが、あまりにも安易な仮説である。

斃牛馬処理について一定視野にはいれているものの、その事例が東京都西新宿三丁目遺跡の19世紀埋葬馬である。これは単なる埋葬であって、所謂斃牛馬処理にはあたらない、単発事例である。また、牛馬頭部を用いた雨乞儀礼であるが、発表者の指摘しているとおり、頭部を用いたものであり、今回は頭部がない。百歩譲って雨乞儀礼のものであるとしても、こちらは儀礼ではなく、儀礼の準備のためのものとなり、やはり埋葬である。草戸千軒町遺跡との比較は、斃牛馬処理という社会システムの違いがバックとしてあるため、単純な比較は困難である。ただ、草場権や斃牛馬処理については、中世まで遡る可能性があり(大阪府貝塚市東遺跡、「東遺跡の中世集落跡−獣骨廃棄土坑にかかわって−」)、その成立、確立時期については再検討が必要である。

場の問題であるが、調査区はすべて武家地のであることが報告されている。その場で、雨乞儀礼が行われたことは考えにくい。評者の狭い範囲での知識ではあるが、雨乞儀礼は村単位若しくは数村単位で行われ、山頂や神社地など特定の場で行われることが常である。雨乞の地が存在すこともある。よって、武家地での本儀礼の実施は考えられない。

骨の肥料利用は、江戸家守氏の指摘のとおり、近代に始まったものである。中世においてはすべて廃棄していたようであり、近世に入って櫛払製作に利用された程度である。

首がない埋葬ウシの理解については何らかの行為が考えられるが、確認した状況は祭祀ではなく埋葬と言えよう。


・丸山真史 他「近世における大坂、京都の水産物利用−久留米藩蔵屋敷跡出土の資料を中心に−」

土坑埋土(関東では客土?)を水洗選別して得られた魚介類遺存体の分析。 もう少し、文献史料の踏査を行うべきものである。大阪市、京都市に関しては市史編纂事業が行われており(京都市は現在進行中)、食関連の史料が発見されているものと思われる。小地域おける分析で、『和漢三才図会』、『守貞漫稿』など網羅的なものを根拠にするのは承伏しかねる。

近世を対象とする以上、豊富に残る文献史料を利用しないことは、さらに広がるであろう検討の場を自ら閉じてしまうことになる。この成果を生かすためにも、さらなる研鑽をお願いしたい。


・桜井準也 他「三浦半島における近現代貝塚の調査(1)」

これに関しては、江戸家守氏の指摘のとおり。(先に公表されてしまいました。)

文献、文字資料がある時代であっても、考古学的手法によって文字資料に現れないことを解明できるという主張はもっともなことである。ただ、その目的のために行った行為が、考古学の最ももろい部分、「製作から廃棄までのタイムラグをどう見積もるか?」が露呈した結果となった。数千年、数百年をタイムオーダーとする先史時代では、ほとんど問題にならないこのタイムラグであるが、数十年オーダー以下では最も先に考えなければいけないことを表した良い例である。


長くなったので、協会コメント第1弾はこれにて終了。(第2弾はまた検討します。)

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