うだ話47


     うだ話47  近世の動物食

福原茂樹「近世広島における動物食について−広島城遺跡出土の動物遺体からみた武家層の屋敷地における食生活−」『研究連絡誌II』2003 財団法人広島市文化財団

広島城遺跡出土の動物遺体の検討を発端にして、草戸千軒町遺跡、小倉城、岡山城、明石城、大坂城、江戸遺跡のこれらのあり方を概観しての考察。

結論は、
1.中世段階では動物食の中で獣食のウエートが大きい。
2.17世紀前半までは、この状態が続く。
3.17世紀後半からは、動物遺体の出土が極端に減り、魚介類にウエートが移る。特に広島城は貝食。
4.中世から17世紀前半は、草戸千軒町遺跡、江戸遺跡他で、動物食は一般であったことは証明されているが、17世紀後半以降は、やはり忌み嫌われる行為であった。その原因は「生類憐れみの令」である。
5.このように結論を出したが、武士と農民、大名と足軽ではもちろん違いは予想されるし、集落なりの地理的条件によって、このあり方も変わってくるだろう。
付けたし結論.広島でカキがほとんど出土しないのは、ムキミで流通していたから。現在もムキミで流通しているのを見ても明らか。イノシシの骨も少ないのは、肉で流通していたため。
でした。

文章は論文調ではなく、一般向け、講演会のテープ起こしの様な軽いものだったので、はじめからするっと読みましたが、何度読んでも理解できないというか・・・。

1)イヌを鷹類の餌として理解されていたが、それは人間がこれほど動物食をしていたことが分かる以前の調査報告であり、そのままの理解では現状に合わない。また、どのような形態で鷹が飼われていたか考察せずに、安易に餌とするのは受け入れられない。動物園の様に、狭いゲージで飼っていて、骨付きのまま肉を与えたら、ゲージ内に落ちた骨は掃除して一ヶ所に破棄するだろうが、江戸時代にそんなことをするのか? また、骨からはずして肉を与えた場合は骨だけが一ヶ所に残り、それを一括廃棄するだろうが、そのような手間をかけるか? もう少し分析が必要。

2)17世紀代で様相が変わることによって獣食のウエートが下がるは、受け入れられない。骨が出土しなくなることは、その場で解体などが行われていなかったことを示しているだけである。この事象の最大要因は、草場権の政治的な確立と動物を扱う人間が限定されることである。扱う人間が限定され、流通が完全に限定されることによる。この点は今後さらに検討していかなければならない。うだ話40でも述べたが、いわゆる被差別部落のほとんどが周知の埋蔵文化財包蔵地になっていない現状では、考古学的には言及できない。さらに調査を進めるべき。

3)生類憐れみの令を出してくるのはあまりにも安易すぎ。地方ではほとんど影響の無かったものを原因と提示されても賛成のしようがない。

4)階層、地域、地理的条件で様々変わってくるのは、もちろんのこと。それと動物骨の遺存の仕方も変わってくるので注意が必要。

5)カキのムキミ。これの根拠が現在ムキミで販売されていることを見てもとされている。ムキミの状態はスーパーマーケットでパック販売するため、主婦が扱いやすくするためであり、そのことを江戸時代に当てはめるとは。現在でも、ちゃんとした魚屋さんでは殻付きで販売されており、鮮度や痛みのことを考えると、殻付き以外考えられない。次、イノシシのこと。結論1、2、3で骨が出ないことから獣食が無くなったとしながら、イノシシの骨が無いことは肉で流通していたといわれても、説得力に欠けるというか、180度違う理論展開では?

以上、雑感でした。

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