うだ話62


     うだ話62  中世の遺棄墓を考える

第1回 中世墓を考える「中世の遺棄墓を考える」 於:奈良市

鵜澤和宏氏「骨が語る遺棄墓」
山村信栄氏、柳智子氏「太宰府条坊跡の遺棄葬」
水澤幸一氏「浦廻遺跡にみる遺棄葬」
前嶋敏氏「文献にみえる遺棄葬」
佐川真一氏「絵図にみえる遺棄葬と中世墓」

討論:司会−藤澤典彦氏
場内参加:勝田至氏、高田某氏(事前に依頼? 高田氏は存じ上げません。)

到着時点で1本目終了してした。PPによるレジュメによると動物骨の専門家。中世の骨のあり方から遺棄葬に迫る。骨に対する理論骨格的な話が中心だったよう。

2本目は太宰府条坊跡西端の溝から出土した獣骨、人骨の事例報告。時期は12世紀で、太宰府条坊跡の終末期、その西側に中世の町ができはじめた時期。ウマを中心にした出土で、人骨は頭蓋骨を中心に(ほぼ頭蓋骨のみ)5個体出土。獣骨は奈文研、松井氏、人骨は九州大学の協力により取り上げ、同定を行ったとのこと。街路にあった人骨を遺棄したとのこですが、結論は、はっきり言って納得できません。

私の質問に対し、上層、中層、下層の3時期区分をしているが、土器形式では時期差が無いこと、獣骨の最小個体数は不明、溝内埋土の水洗選別は行っていないと回答。

3本目は調査担当者でなく、報告書からの報告。流路跡若しくは小河川跡からの獣骨、人骨の出土。8層からの出土であり、出土品のほとんどは漆器などの木製品、土器は土師器1点のみ。墨書銘の物から13世紀初頭前後の時期を考える。人骨は河原状の所に遺棄された物が流れてきたとする。

4本目、文献史学の研究。『本朝世紀』、『百錬鈔』、『大鏡』、『今昔物語集』、『康富記』、『実隆公記』、『明月記』などなどから遺棄に関わる記述の報告。遺棄葬とはなにか?=はっきりしない、「四葬」=火葬、土葬、水葬、風葬とする。

5本目、今回のアイディアマン。『六道絵』、『九相詩絵巻』から遺棄葬を描いたものを説明。『餓鬼草紙』を主に取り上げて遺棄葬を説明。実際の状態を書いたものではないが、遺体の変化を観察して描いているとし、当時墓地にはこんな物があったとする。

草紙は餓鬼を空想して描いた物では無いのでしょうか?死体が当時のあり方をある程度示しているとは思えません。骨学的に云々についても発言があり、鵜澤氏も言及されていたようですが、納得できません。(白骨化して肋骨がそのまま盛り上がっている?軟骨が無くなるので、バラバラになりますよ。)


討論
これがまた出来試合。文献史学の方々とのやりとりが中心でした。それとすべての骨事例報告について鵜澤氏が追加説明していました。皆さん、納得されていたようですが、骨の実態を知っている私にとっては納得できず。単なる推定ばかりで根拠がありません。

それと、今回「遺棄葬」としたものは、遺構から単発で見つかった人骨が中心であり、「葬儀」と言える物は無かったように感じます。弥生時代以降よくある単発発見。由比ヶ浜の例を良く出していましたが、あれが特殊であり比較できません。

それと文献の方ですが、中世が専門であり、その前後についてはご存じないようです。「江戸時代には庶民の墓は少なかったと聞いている。」、「遺棄される死体が多かった。」と発言があり目が点になりました。こんなの単なる担当者でも知ってませんか?そんなバカな!って・・・。

遺棄葬ですが、あったとしてもそれは「風葬」であり、何か無理矢理用語を使ってテーマにしている感じです。都市なりで疫病で破棄される死体は、単なる死体破棄であり、埋葬ではなく、何もかもをごっちゃにして「葬」とされても困ります。

都市おける死体の処理が、当時一般的であったみたいな強引な考え方にはついていけず。いろいろ事例を確認出来たことは益になりましたが、あの考え方には反対。その上、埋蔵文化財担当者は人工物しか理解しない態度も再認識。「骨は専門家に任せました。」的な発言。

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